霊雲院 重森三玲作庭・臥雲の庭と九山八海の庭
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今日は重森三玲氏により復元された「九山八海庭」と、同じく創造的な枯山水庭園「臥雲の庭」のある東福寺塔頭の霊雲院です。
ここは東福寺へ行くとき、ついつい見逃してしまう塔頭寺院です。
足は臥雲橋に向いてしまうところですが、この先に進みます。
久しぶりの霊雲院です。
今日は写真の枚数をかなり増やしてお届けします。
霊雲院 (れいうんいん) 臨済宗 東福寺派・塔頭
明徳元年(1390)に岐陽方秀(きようほうしゅう)が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていました。
岐陽和尚は、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧で、明徳4年(1394)に遣明船が明国から四書や詩経集伝などを舶載した時、岐陽和尚がはじめてこれらに注釈を加えて講義をし、後に将軍足利義持が篤く帰依しました。
寛永年間(1624-44)、第7世の湘雪守?は肥後熊本の人で、この方が住職となられる時に、親交のあった熊本藩主細川忠利(三斎の子)・光尚父子が、500石の禄を贈ろうとしましたが・・・
「出家の後、禄の貴きは参禅の邪鬼なり。庭上の貴石を賜はらば寺宝とすべし」と申しました。そこで細川家は「遺愛石」と銘づけた石を須弥台と石船とともに寄贈しました。
「九山八海の庭」(霊の庭)。庭の中央にあるのが遺愛石。
遺愛石 (いあいせき)
高さ3尺、横4尺余りの青味をおびた小石で、須弥台の上に設けた四角い石船の中に据えられています。
書院の前庭の「九山八海の庭」(霊の庭)は、江戸時代中期に作庭されましたが、久しく荒廃していました。
「九山八海の庭」 昭和45年(1970)に重森三玲氏によって復元されました。
九山八海(くせんはっかい)とは
須弥山を中心に八つの山脈と八つの海がとりまくという仏教の世界観で、遺愛石を須弥山に見立て、白砂の波紋が山海を表現しています。
達磨さん
幕末にはこの霊雲院で、西郷隆盛と勤王の僧、月照が維新に向けて密議を交わしたといわれます。日露戦争当時には、東福寺全体で1500人のロシア兵の捕虜収容所となりました。
霊雲院には50人のロシア兵が8ヶ月に渡ってここで寝起きし、彼らが故郷を想って作った弦楽器が展示されています。
観月亭
太閤豊臣秀吉の北野大茶会当時のものを移築した桃山様式の茶室で、1階が四畳半席、2階が五畳半席の珍しい二階建てです。月を邪魔する雲を眼下に臥せさして、月見を催す趣向から「観月亭」と称します。非公開。
「九山八海の庭」(南側)と「臥雲の庭」(西側)は書院をL字型に囲んでいます。
重森三玲作の庭ですが、知られていないのか、訪れる人は少ないのでお勧め。
「臥雲の庭」
重森三玲作庭で、寺号霊雲を主題にした創造的な枯山水庭園。
「臥雲の庭」は、悠々と空を行く雲と無心に動く水の美しさを、鞍馬砂や白砂の砂紋、枯滝組で表現しています。
奥にある龍門曝には三尊石を配して、白い玉石が急流を表し鯉魚石が滝を昇ります。
手前には、赤いベンガラを混ぜたコンクリートの上に鞍馬砂で同心円の渦模様を描き、湧きあがる雲を表しています。
白砂の波紋が流れる水を表わしています。見事に美しく剪定されていますね。
苔は陸地を示し、石塔や剪定された庭木が山里であることを表わしているようです。
まるで動きのある箱庭(ジオラマ?)のようで、眺めていると様々な発見があり楽しくなる庭でした。
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