東福寺 本坊庭園
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東福寺の伽藍を見た後、方丈の庭園を見に行きました。庫裡に拝観受付があります。
「東福寺本坊庭園」 当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称でしたが、2014年に国指定名勝に登録され、「国指定名勝 東福寺本坊庭園」と改められました。
方丈は禅宗寺院における僧侶の住居で、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。東福寺の方丈は、明治14年(1881)の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失しましたが、明治23年(1890)に再建されました。
方丈の東西南北の四庭は、「八相成道」にちなんで「八相の庭」とよばれ、昭和14年(1939)に重森三玲によって作庭されました。庫裡と方丈を結ぶ渡廊下があり、その右の狭い空間が「東庭」です。
左にある南庭(TOPの写真)の「動」に対して「静」の世界を表す構成で、星座の「北斗七星」を、円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣によって表現しています。向かいの書院との間の二重生垣は天の川だそうです。
円柱は、昨日見てきた「東司」の解体修理の際の余材(礎石)です。禅の世界の「一切の無駄をしない」という教えから、この材料を使用して欲しいと当時の執事長・爾以三師からの要望だったそうです。
三玲は、研究によって日本庭園と四神相応の繋がりが深いことを知り、四神相応と関係が深い北斗七星を選び、星は常に東から上ることから東庭に配置しました。石柱の高低は星の明るさでなく、リズム感を持たせる三玲の意匠だそうです。
渡廊下の左には方丈の南庭が広がります。ここでは日本庭園における定型的な蓬莱神仙思想を中心とした形態となっていて、蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけで表現しています。
その中の三神仙島(手前から瀛洲、蓬莱、壺梁)は、横に寝かせた長い石とバランスをとった立石で表現しています。これらは古庭園ではほとんど例がなく、三玲の新しい石組手法がこの庭で確立されたといえるそうです。
方丈内部の写真はありませんが、三室二列の六室があり、南面に広縁を設けています。中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸となっています。
自然の山を表す従来の苔山に対して、三玲は築山によって京都五山を表現しました。一切石を使用せずに山の大きさや高さによって、造形的な美を追求しました。本当に五つの山があります。
西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現したものです。本坊内に使われていた縁石(カズラ石)を再使用しています。
地割は斜線上に市松を組み、北庭の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図しています。それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現しています。
作庭当時の写真では、サツキの高さが縁石から3cmほどしか出ておらず、はっきりと大きな市松模様に見えていたそうです。現在はサツキが高くなってしまい、当初の姿とは大きく異なっています。
南西の隅に自然石の「三尊石組」 東庭の北斗七星の七石柱、南庭の築山の五山と組み合わて「七五三」になります。すべて素材が異なる七五三は古典庭園にはない手法で、観賞するだけではなく、思惟することを求める禅的な庭園であるといわれます。
「通天台」 方丈の北西の角に張り出した舞台です。
ここから、通天橋など洗玉澗の景色を楽しめます。
「北庭」では、勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用して市松模様を造っています。西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくように表現されています。
このような切石は、素材は天然でも人が細工した直線的であるため、歩く場所の敷石以外に自然を表す庭園に使うことは通常ありえないそうです。それでも、この廃材を使用してほしいという要請を受けて、三玲は伝統的な市松模様を造ることを思いついたのです。
作庭直後の写真を見ると、市松が一つずつになるような所は白川砂内にあったそうです。白川砂と苔との仕切に州浜状の曲線が用いられており、そのコントラストも考えた設計だったのです。
ところが、現在では白川砂がすべて苔で覆われています。竣工時の姿に戻すことは可能ですが、苔の中に散らばる板石の風情も捨てがたいので現状のまま維持していくことにしたそうです。
三玲は、3年間の日本全国古庭園実測調査を終え、昭和14年に『日本庭園史図鑑全26巻』を発刊しました。(方丈の東に、石仏や石塔だけが置かれた自然のままの「第五の庭」があります。)
その直後にこの本坊庭園の作庭に取り掛かり、全国、各時代の庭園にはない独自の新しい発想の設計をしました。ところが、方丈西にあった松の老木を移植する計画は、費用や枯死するおそれがあると反対されました。
さらに、本坊内にあった材料をすべて再利用するという厳しい条件を課せられました。この本坊庭園はそのような制約があったからこそ生まれた斬新的な意匠で、その後の三玲の作庭にも大きな影響を与えたとされています。
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