←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。

※写真は全てクリックで拡大します。
初弘法の市を見終って、五重塔の方へ行きます。
世界文化遺産・東寺(教王護国寺)は、平安京造営時に国家鎮護のために創建され、のちに弘法大師空海に下賜された寺院で真言宗総本山です。
今「京の冬の旅」で五重塔の内部が公開されています。
不二桜の咲くのが楽しみ。庭園はまだ冬の装いで、少し淋しげです。

亀の姿はまだ見かけませんでしたが、鯉たちは集まってきます。

修学旅行生の姿も大勢見えます。

徳川三代将軍家光が再建した五重塔は、木造の建築物として、日本一の高さを誇ります。

五重塔(国宝) (以下説明はいただいた栞より)
高さ55メートル 本瓦葺 江戸時代 寛永21年(1644)
空海が嵯峨天皇から東寺を勅賜されたとき、塔はまだ建っていなかった。空海は、天長3年(826)東山の材木を造営に充てることを願ったが、稲荷山の神木事件などがあり、容易に捗らなかった。ようやく元慶7年(883)に竣工したが、その後、天喜3年(1055)焼亡、応徳3年(1086)再建、文永7年(1270)焼亡、永仁元年(1293)再建、永禄6年(1563)焼亡、文禄3年(1594)再建、寛永12年(1635)焼亡、寛永21年(1644)再建と4度の焼亡をへて、その都度再建され、現在は五代目の塔に当たる。日本では唯一の高さでもあり、雷が落ちやすかったとも考えられる。

内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥檀上に阿?如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を安置している。現在は剥落しているが、四天柱には金剛界曼茶羅諸尊が描かれている。外陣周りは、四方の扉の内面に護法八方天が、扉の左右の柱には八大龍王が描かれ、そして周囲の壁の上段に真言八祖像、下段には蓮池が描かれている。さらに、天井は折上小組格天井とされ、長押等にも全面にわたって極彩色の文様が装飾されている

耐震構造
東寺の塔は創建以来、四度の焼失を経ているが、地震で倒壊したとう記録は見当たらない。これは五重塔の塔身が各層ごとに、軸部・組み物・軒を組み上げ、これを最上層まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組みや単純な釘打ち程度で、緊結されていない柔構造だからである。したがって、地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。柱も各層では短いため、倒れようとする力よりは元に戻ろうとする復元力の方が大きいので、地震に強いと考えられる。
心柱
多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが、独立した心柱はあまり収縮しない。そのためズレが生じ、そのズレを直すために、元禄五年(1692)一尺五寸(約50センチメートル)ほど心柱を切り下げたため、須弥檀下の心柱の彩色が少しずれている。

・・・他にも紹介
東大門 不開門(あかずのもん) (重文) 鎌倉時代
創建年代は未詳。現在の建物は建久9年(1198)文覚上人の大勧進によって再建。建武3年(1336)6月30日、新田義貞が決死の覚悟で東寺の足利尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて危うく難を逃れることができた故事により「不開門」とも呼ばれている。のち慶長10年に豊臣秀頼が大修理を加えたものと伝えられる。

左が金堂 右が講堂

◆東寺の過去記事は下で見て下さいね。
★東寺と塔頭 ③ ② ① 

/ ★旧
東寺・境内 伽藍 小子房 観智院 六孫王神社 西寺阯 羅城門址

向うに初弘法の露店が並んでいます。

梅園の梅もほころんできたようです。

夜叉神堂 桃山時代 (食堂(じきどう)の南に左右並んであります)
最初は南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まないで通ると忽ちその罰があたったとされ、中門(現在の金堂前燈籠周辺)の左右に移された。慶長元年(1596)中門倒壊の後、現在の小堂を建立して安置した。

東 「雄夜叉」 本地文殊菩薩


夜叉神は弘法大師の御作とされ、霊験あらたかで仏法守護を本誓となすとあり、歯痛を治して下さると親しまれています。
西 「雌夜叉」 本地虚空蔵菩薩


「立体曼荼羅を見に行かなくては」と、足早に講堂に行かれたかたが・・・
そうです、美男の誉れ高き帝釈天様も是非ご覧くださいね。


初弘法の喧騒と比べると別世界のようで、おちついた冬の雰囲気を感じることができました。

東寺とくれば・・・次はあそこに行きますよ。
今日も見に来てくださってありがとうございます。励みになりますので、ブログランキングの応援のクリックをしていただけると嬉しいです
★こちらを是非よろしく→
ブログ村→
-------------------------------------------------------------------

最近のコメント