平安神宮 節分祭
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多くの寺社で節分祭がありましたが、今年は平安神宮に行ってきました。平安神宮の節分祭(大儺ノ儀)は、平安時代の宮中行事を忠実に再現しているそうで、一度はゆっくり見てみたいと思っていました。
昼前から神楽殿で茂山社中の奉納狂言がありました。
13時から本殿で「節分祭」が行われ、迎える春の平安を神前に祈念します。これは撮影できませんので、神官らが入場するところだけ。
14時からは、大極殿下に設けられた斎場で「大儺之儀」(だいなのぎ)が行われます。この儀式は、古くは「追儺(ついな)」あるいは「鬼やらい」といわれ、平安朝のころから朝廷の祓の行事として、旧暦大晦日(節分の日)に行われていたものです。
斎場は、四隅に忌竹(いみだけ)を立てて注連縄(しめなわ)を張り巡らし、北東に青、南東に赤、南西に白、北西に黒(紫)の四垂が掛けられます。これは、陰陽五行の思想にもとづいて四方を守る神獣、四神(蒼龍、朱雀、白虎、玄武)にちなんでいます。
まず、東の方から上卿(しょうけい)・殿上人(でじょうびと)がそれぞれ童を従えて入場し、五位・七位の儺人(なびと)が続きます。次に、西の方から、陰陽師が6人の斎郎(さいろう)をひきいて入場します(下の写真)。
斎郎(所役)が食薦(けこも)を敷き、案(台)に神饌を供えます。中央の案には五色の絹・飯(いい 餅米を蒸して高盛にしたもの)、右の案には鰹節・昆布・若布・酒、左には延鮑(のしあわび)・酒・塩が供えられます。
斎郎は斎場の正確な位置を示す印、版(ばん)を敷きます。次に、儀式をつかさどる陰陽師が独特の歩き方で版の前に進み、祭文(さいもん)を奏上します。
祭文の途中で、黄金4つ目の面をつけた大舎人(おおとねり 大男)、方相氏(ほうそうし)がシンシ(子どもの所役)を率いて入場します。祭文が終わると、方相氏が中央に進み、3度手に持つ矛で盾を打ち「鬼やらう」と大声で発声します。
次に、上卿が中央に進み、北東と北西に向かい桃の弓で葦の矢を射ます。その前に注意がありますが、実際に矢が飛んで来ます。
殿上人が同様に桃の杖で、北東・南東・南西・北西と四方を撃ちます。
方相氏が矛と盾を打ち鳴らし「鬼やらう」と発声しながら、斎場の周囲を3度廻ります。後にはシンシと儺人(なびと)が「鬼やらう」と発声しながら続きます。
最後に応天門南側まで移動し、方相氏、上卿、殿上人が門外に向かって同様に大儺の儀式を行います。このように災いをしりぞける儀式を行って、周囲の邪気や罪穢れを祓いやります。
15時からは「豆撒き行事」が行われます。大儺之儀で追いはらわれたはずの邪鬼たちが再び応天門から侵入してきます。
境内をわがもの顔で暴れまわり、
ついには大極殿を占拠してしまいます。
ところが、市民の代表に打豆で反撃され、
結局、応天門から追い出されてしまいます。ちなみに、鬼は茂山社中の方が扮しているそうで、迫力のある動きでした。
その後で、知名士・年男年女らが大極殿から参拝者に福豆の袋を投げてくれます。
「大火焚神事」 豆捲き行事に引き続き、祈願を込めて寄せられた「火焚串」約4万本を龍尾檀下斎場で焚き上げ、厄を祓います。
平安神宮は広いからかそれほど混雑していなくて、写真撮影は比較的楽でした。また、大手門から左手にある額殿が休憩所になっていて、甘酒の接待がありました。
平安神宮は、歴史建築の研究と現代に生きる伝統技術により平安時代の建築を再現していることから、(明治以降の)新しい建物ですが重要文化財となっています。
同様に「追儺式」は、時代考証により式次第、作法、祭具、衣裳にいたるまで綿密に復元されており、平安神宮に相応しい祭りといえるかも知れません。
今日は写真の枚数が増えてしまいましたが、雰囲気が伝わりましたでしょうか。
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