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南禅寺の春景色です。この日は三門に上がってから桜を求めて境内を一回りしました。
「南禅寺」は鎌倉時代中期の正応4年(1291)に、亀山法皇がこの地にあった離宮を無関普門禅師(大明国師)に下賜し、開山として迎えて開創したのが始まりです。
無関禅師はその年に亡くなり、法皇の命により規庵祖円禅師(南院国師) が31歳の若さで南禅寺第2世の住持となり、一宇もなかった伽藍の建立・整備に半生を捧げました。
三門とは、仏道修行で悟りに至るために透過しなければならない三つの関門、空、無相、無作の三解脱門を略した呼び名です。当初の三門は永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進によって創立され、応安年間(1368-75)に新三門へと改築されました。
しかし文安4年(1447)の火災で焼失してしまいました。現在の三門(重文)は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものです。(2層目に上り、外縁を一回りします。)
最初に来た正面の参道、正面の向こうに市内中央部で一番高い「京都ホテルオークラ」が見えます。
「勅使門」(重文)は、慶長年間(1596-1615)に建立された内裏の「日の御門」を江戸時代の1641年に明正天皇が移築したものです。
ところで、亀山法皇が無関禅師を開山として迎えたのには逸話があります。(西の方に日が差しています。)
「文応皇帝外紀」によれば、亀山上皇が法皇になった直後、その離宮に奇怪な事が起こりました。(「左大文字」、ふもとに金閣寺があります。)
毎夜のように怨霊が現れて、法皇が各宗派の高僧に退治を命じましたが効果がありません。「船形」
一方、無関普門禅師は40歳の時、更に向上の道を求めて宋に渡り10年余、禅の深興に達し、1262年に帰国しました。そして新潟県の正円寺に帰り、静かに坐禅三昧の時を過していました。(吉田山の南斜面に「金戒光明寺」の山門と本堂の屋根が見えます。)
弘安3年(1280)、師の東福寺円爾禅師が病気であることを知り、無関普門禅師は70歳の老躯をいとわず、はるばるお見舞いに上洛しました。(北東の方角には「南禅僧堂」、三門を通る参道に並行した北の道沿いにあります。)
しかし、同年円爾禅師は亡くなり、その後継の第2代住持が数ヶ月で退任したあと、周囲の願いによって東福寺第3代住持に迎えられました。(東の正面は「法堂」)
70歳までの生涯をもっぱら修行に終始した無関禅師は、初めて住持に就任しました。(こちらの南の道沿いには塔頭が並んでいます。中央にウェスティン都ホテル京都)。
無関禅師が東福寺住職として約10年務めた79歳のときに、亀山法皇に妖怪退治を命じられました。(三門の横の「天授庵」、紅枝垂桜が一本あります。)
無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送っただけで、怨霊は現れなくなりました。(天授庵の山門、ここが拝観入口になります。)
南の山の斜面には「蹴上浄水場」、先日、産業遺産に指定されている煉瓦造りの建物を曳家工事で移動したことが話題となりました。建物をいったん移設して、内部の改装や新規の施設を設置した後、元の位置に戻しました。
三門から降りて法堂(仏殿)に向かいます。法堂は、江戸時代の1606年に豊臣秀頼の寄進によって再建されましたが、明治時代の1895年に焼失し、1909年に再々建されました。
亀山法皇は無関禅師の徳をたたえて深く帰依し、正応4年(1291)に離宮を禅寺として、禅師を開山として迎えたのです。しかし、高齢の無関禅師はその年の暮れに亡くなり、先ほど三門の上から見た天授庵に葬られまた。(三門の方を振り返って。)
第2世となった規庵祖円禅師は南禅寺の堂宇の建設に努めて53歳で亡くなり、帰雲院に葬られ、創建開山(実質的な開山)と呼ばれています。法堂の北にある「南禅僧堂」
法堂(右)と方丈は廊下でつながっています。
石段を上った正面は方丈、その左の「龍淵閣」では座禅体験が行われています。
南禅寺は室町時代の応仁の乱(1467年)ですべての伽藍を焼失して、その後再建は思うにまかせませんでした。
南禅寺の本格的な復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605)以心崇伝が第270世住持となってからです。(方丈の玄関)
その後、崇伝は江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、キリスト教の禁止、寺院諸法度、武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定など、幕府の宗教、武家、朝廷政策に深くかかわりました。(「庫裏」 方丈庭園への拝観入口です。)
崇伝は江戸と南禅寺の金地院を往復しながら、南禅寺や建仁寺の復興にも力を尽くし、南禅寺の中興開山とも呼ばれています。法堂の南にきました。
水路閣に沿って左に行くと最勝院、向こうの石段を上ると南禅院があります。南禅院は亀山法皇の離宮を禅寺にした発祥地で法皇の分骨が納められ、最勝院は、離宮に怨霊となって表れた駒僧正ゆかりの寺です。
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