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祇王寺には何度も訪れますが、その上にある滝口寺には滅多に訪れることはなくて・・・。今日は滝口寺の本堂から下りてくるかたちで写真を入れます。
「平家物語」滝口入道と横笛の悲恋で知られている滝口寺です。
滝口と横笛の悲恋物語・・・
平家全盛の時代。ある日、平清盛が花見の宴を催しました。ここに平重盛の部下の斎藤時頼も参加していました。
宴の余興として、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛が舞を披露し、それを見た時頼は横笛の美しさ、舞の見事さに一目惚れしてしまいました。
時頼の父はこの身分違いの恋愛を許さず、傷ついた時頼は横笛には伝えずに出家を決意。嵯峨の往生院に入り「滝口入道」と名乗り、横笛への未練を断ち切るために仏道修行に入りました。
(「滝口入道」とは、斎藤時頼が宮中警護に当たる滝口武者であった為、出家後の名前の由来となりました。また、修行に励んだ往生院が現在の「滝口寺」です)
これを知った横笛は、時頼を探しにあちこちの寺を尋ね歩きます。ある日の夕暮れ、嵯峨の地で、時頼の念誦の声を耳にします。時頼に会いたい一心の横笛でしたが、時頼は「会うは修行の妨げなり」と拒み、横笛を帰しました。
横笛は都へ帰る途中、指を斬り、その血で石に思いを書き記したといいます。
「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」
滝口入道は、これからも横笛に尋ねてこられては修行の妨げになるからと、女人禁制の高野山静浄院へ居を移します。
それを知った横笛は、悲しみのあまり病に伏せ亡くなりました。(大堰川に身を投げたともいわれています)
向こうに見えるのは「小松堂」。時頼の主君・小松内大臣・平重盛を祀ります。
横笛の歌石
1枚古い写真を入れます。(2007年の撮影ですが石柱も新しいですね)
横笛が自らの指を切り、血で歌を書いたという石が右の自然石。
横笛の死を聞いた滝口入道は、ますます仏道修行に励み、高野聖となり、高野山真言宗別格本山の大円院の第8代住職にまでなったといいます。
『平家物語』における横笛との悲恋は、明治26年に高山樗牛がそれらを題材にした小説『滝口入道』として発表されました。
◆青もみじの頃の滝口寺は→こちらでご覧ください。
滝口寺から下りて行くと「祇王寺」細い一本道(山道)です。
----------------------祇王寺---------------------
こちらも哀しいお話・・・祇王、仏御前の物語を「平家物語 巻の一」
平氏全盛の頃、都に白拍子の上手「祇王と祇女」という姉妹がいました。
姉の祇王が清盛の寵愛を得、妹の祇女も有名となり、毎月百石百貫の手当てもあって安穏と暮らしていました。
ある日、仏御前と呼ばれる白拍子が清盛の館にやって来て、舞をお目にかけたいと申し出ました。「祇王がいるところには叶うまいぞ」と追い返したものの、祇王が「私も同じ白拍子の身」と取り成して、今様を歌わせました。
昨日までの祇王への寵愛は何処へやら、清盛は仏御前に心を移し祇王を追放します。
もとの貧乏暮らしに戻った祇王の家族に代わり、仏御前の家族は栄えます。翌年、清盛は仏御前が退屈しているからと祇王を無理矢理呼び寄せました。
はるか下の座敷に祇王が通されたのを知った仏御前は気の毒でなりません。祇王をこちらへ通し自分には暇を出して下さいと願いますが清盛は聞き入れませんでした。
「かくて都にあるならば 又うき目を見むずらん 今は都を外に出でん」と言い、祇王(21才)、祇女(19才)、母刀自(45才)3人は尼となり嵯峨野のこの地で仏門に入りました。
母子三人が念仏しているところに竹の編戸をたたく者が。。。
清盛の館を抜け出し剃髪して尼の姿でやって来た仏御前(17才)でした。
祇王は「わずか十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ」と4人で住むこととし、みな往生の本懐を遂げたのでした。
秋に来たとき、本堂の前に白猫のまろみちゃんの像がありましたが、この日見つけました・・・手水鉢の横に石に彫られたまろみちゃん。お賽銭があげられて、皆から可愛がられていたことが忍ばれます。
寒牡丹。白雪の中で鮮やかに花開いていました。
滝口寺と祇王寺・・・どちらも男性に振り回された哀しい身の上ですね。
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