金戒光明寺 会津墓地から御影堂へ
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昨日の金戒光明寺塔頭・西雲院で、開祖宗厳の他にもう一人忘れてはならない人物がいます。西雲院境内にある会津小鉄の墓(左は二代目) 会津小鉄(1833-1885)は本名を上坂仙吉といい、幕末から明治にかけての侠客です。
水戸藩士と大阪の太物商の娘の間に生まれたとされますが、幼くして父母と分かれ、11歳のとき江戸で中間(武家の奉公人)になりました。
17歳で関西に戻り、会津藩の中間となりますが事件を起こして関西を追放され、江戸の会津藩に世話になりました。このころ堅気の生活を捨て、侠客として一家を構えます。
文久2年(1862)の会津藩兵入京とともに、会津藩の中間部屋頭として上洛しました。いつも虎徹(刀工虎徹の刀)を手にしていたことから、「会津の小鉄」と呼ばれました。
池田屋事件や禁門の変に協力し、新撰組の密偵も務めましたが、討幕派に狙われることになります。何度か事件を起こしますが、そのつど会津藩に助けられました。(会津藩殉教者の墓、鳥羽伏見の戦いの戦死者115名とそれ以前に亡くなった237名が葬られています。)
慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは子分500人を動員しますが、会津藩は敗退しました。路上に放置されていた会津藩の戦死者の遺体を、子分を動員してこの西雲寺の墓地に葬りました。こちらは慰霊碑。
さらに、遺品を携えて官軍が支配する会津若松に潜入して遺族に渡しました。(会津の人の心の支えなのでしょうか、慰霊碑には会津若松城の写真や絵が供えられていました。)
小鉄は報復により自宅を焼かれたりしましたが、以後も会津藩の恩義に報いるために、西雲院住職とともにこの会津墓地を死守し、清掃・整備の奉仕を続けたそうです。
ここには、武士だけでなく使役で仕えた苗字のない者も同様に葬られています。また、会津藩松平家が神道であったため、7割ほどの人々が神霊としてい祀られています。
小鉄は架橋や河川整備などの社会事業も行い、明治18年に52歳で亡くなりました。1万3000余人の会葬者が集まったといわれ、この西雲院に葬られました。
会津墓地を出て、金戒光明寺の境内に向かいました。最初に通った蓮池。
阿弥陀堂 境内で最も古く、江戸時代初めの慶長10年(1605)豊臣秀頼により再建されたもの。恵心僧都源信最後の作とされる本尊・「阿弥陀如来坐像」が安置されています。以後、源信は彫ることを止めたので、「のみ納め如来」、「お止めの如来」ともいわれています。
大方丈の勅使門 昭和9年(1936)に火災で御影堂とともに、大方丈と勅使門は焼失してしまいましたが、2年後に再建されました。
「謁見の間」「虎の間」「松の間」および回廊式庭園「紫雲の庭」が拝観できます。
熊谷直実が敦盛の供養のために、戦いを止めて鎧を洗い、それをこの松の枝にかけて、法然上人のもとに出家したとされます。
鐘楼と鐘は江戸初期の元和9年(1623)に、将軍家大奥のお六の方が寄進したものです。
御影堂 脇壇には京都七観音、洛陽三十三観音の一つの千手観音立像を安置しています。
千手観音は、かって遣唐使吉備真備が中国から持ち帰った栴薩(センダン?)を刻んで吉田寺に安置したもので、同寺が廃寺となってからここに遷されました。運慶作と伝えられる文殊菩薩像も拝観できます。
御影堂の横を入るといくつか塔頭があります。また、右の道は真如堂に続き、その途中に昨日の記事で紹介した塔頭・龍光院があります(ただし非公開)。
自転車を置いてきたので、山門の前まで戻らなくてはいけません。
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