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この日の平安神宮は人出が少なくて、久しぶりにそれぞれの建物の写真を撮りました。平安神宮は明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、平安京遷都当時の大内裏の一部を実物の8分の5の規模で復元されたものです。楼門は応天門を模しています。
博覧会に先だって、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀され、昭和15年(1940)には、平安京で過ごした最後の天皇、孝明天皇が祭神に加えられました。楼門をくぐると、正面に拝殿、そこから歩廊でつながる蒼龍楼(右)と白虎楼(左)
楼門のすぐ脇に、蒼龍(青龍)と白虎の手水台があります。平安京は四神相応の思想に基づいて築かれたといわれ、四つの方角を守る神のうち、青龍(東)と白虎(西)を表わしています。
後ろから見ると、奉納者として「貴族院議員 小室信夫」の名前があります。小室信夫(こむろしのぶ)は幕末から明治にかけて活躍し、波乱万丈の人生を送った人物です。以下では、彼の人生をたどりながら境内を見て回ることにします。
*以下の小室信夫についての記述に誤りがあると、「信夫の曾孫」さんからご指摘がありました。ここではあえて訂正しませんので、16年12月15日付の「信夫の曾孫」さんのコメントを合わせてご覧ください。
小室信夫は天保10年(1839)に丹後国与謝郡(現在の与謝野町)で生まれ、生家は生糸縮緬商を営む豪商・山家屋でした。
やがて、京都の山家屋を任されて京都に在住します。その頃、高まりを見せていた尊王攘夷運動の志士たちと交わるようになりました。
文久3年(1863)に「足利将軍木像梟首(きゅうしゅ)事件」が起こり、京都が騒然となりました。この事件は、平田派国学の有志を中心とする尊王過激派がひきおこしたものですが、小室も仲間として加わっていたのです。こちらは白虎の手水台
事件は、等持院に安置されていた歴代の足利将軍の木像のうち、尊氏・義詮・義満の像が持ち出され、三条河原に造られた獄門台に梟首(さらし首)にされたというものです。
「逆賊」の足利将軍の首をはねてさらすことにより、現在の徳川幕府を糾弾し、将軍家茂の上洛を牽制する狙いがあったと考えられています。二つの手水台の上部は昭和30年に新たに寄贈されたものです。
京都守護職に着任して間もない松平容保は激怒し、徹底的な捜査を行うように指令しました。小室は、各地を転々と逃亡する日々を送りますが、結局逃げることを断念して京都の徳島藩邸に自首をします。楼門の内側、大鳥居が見えます。
これは、一緒に逃げていた仲間が徳島出身だったからですが、徳島藩は取り扱いに困り幕府にお伺いをたてます。この時には既にほとぼりが冷めていたからか、幕府からは「貴藩にて預かれ」という回答でした。額殿
そこで徳島藩は二人を藩邸に幽閉し、小室は5年もの間外出も許されない生活を送ることとなります。
明治維新になり状況が一変します。明治政府からは各藩に有能な人材を出仕させよと指示が出され、倒幕に功績のあったものが重用されました。
ところが、佐幕派の徳島藩の家臣には、明治政府が望むような人材が見当たりません。そこで、幽閉中の小室信夫に目をつけます。例の事件が、一転して輝かしい経歴になったのです。
徳島藩は、小室を釈放して徳島藩の家老級の身分として新政府に出仕させました。小室は、明治元年徴士・権弁事、岩鼻県知事、明治3年徳島藩大参事、明治4年左院三等議官などを務めました。
明治5年には、在籍していた左院から政治研究のためにフランスやイギリスの視察に派遣され、留学のためにイギリスに渡る元藩主・蜂須賀茂韶と同船しました。信夫は渡欧した年に官位を返上して視察団から別れ、イギリスで鉄道事業についての研究に没頭しました。拝殿
これが、その後の小室の活動の契機になり、帰国後の明治7年(1874)、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正・古沢滋との連名で、左院に民選議会(国会)の開設を要望して、「民撰議院設立建白書」を提出します。
この建白書が後の自由民権運動の発端となるのですが、その文案を起草したのが小室信夫です。小室がヨーロッパ事情に詳しいことを聞きつけた後藤が、文案の起草を依頼したのです。
一方で、小室は日本初の政党「愛国社」の設立に加わり、徳島の地域政党「自助社」を設立しました。
その後、小室は実業界へと転身し、 明治16年(1883)に梟首事件で世話になった品川弥二郎・渋沢栄一らと共同運輸会社(日本郵船会社)を設立し、他にも第百三十国立銀行、奥羽鉄道、京都鉄道、小倉製糸など 多くの会社を起業して社長や重役を務めました。神楽殿
京都鉄道は後に国に買収されて山陰線の一部となりますが、本社屋を兼ねた二条駅駅舎は日本最古の木造駅舎で、現在梅小路蒸気機関車館の資料展示館として利用されています。また、断崖絶壁に線路を敷設し、多数のトンネルや橋梁を設ける難工事て開設した保津峡の区間には、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車が走っています。
小室は、明治24年(1891)に貴族院議員となり、明治31年に59歳で亡くなります。
平安遷都1100年を記念する平安神宮に対して、晩年の小室信夫はどのような思いで手水台を寄進したのでしょうか?
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