ねねの道から高台寺へ 2015秋 お知らせも
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長楽寺を出て、ねねの道を通って高台寺に向かいました。右は丸山公園、左は大谷祖廟、どちらもかって長楽寺の寺域でした。
記事の途中に---お知らせ---があります。読んで下さいね。
「長楽館」 明治42年(1909)「煙草王」と呼ばれた実業家村井吉兵衛の迎賓館として建築された洋館(京都市有形文化財)、現在はカフェ・レストランになっています。平成20年にはホテル棟も建設されました。長楽寺と参道の両端で向き合っています。
左に円山音楽堂、右に大雲院龍池会館があります。この道の突き当りを右に曲がります。
右が「大雲院」 戦国時代の天正15年(1587)正親町天皇の勅命により、織田信長、信忠父子の菩提を弔うために貞安(じょうあん)上人が開山した浄土宗の寺です。信忠の法名に因んで大雲院と名づけられました。
「祇園閣」 大倉財閥の創始者・大倉喜八郎が別邸を建設して、昭和2年に敷地内に展望台を兼ねた高閣を建てました。その後高島屋の所有を経て、現在は大雲院の所有となっています。
「ねねの道」 正式には「高台寺道」というそうです。。
旅館「元奈古」 元奈古とは万葉集に出てくることばで、元来は古い都という意味で、高貴な人々が集い、憩う社交場の名ともいわれています。ミシュランガイドにも載っているそうです。
茶房「洛匠」 草わらび餅が名物で、涼しげな庭があります。
高台寺塔頭・岡林院(こうりんいん) 江戸時代初め?1608年)久林元昌が創建、1616年に三江紹益が中興したといいます。丸窓の下にお地蔵様がいます。
ねねの道沿いにいろんなお店や宿がありますが、人が多くて写真が撮れません。
「高台寺塔中月真院」 江戸時代初めの元和5年(1619)に津和野藩二代藩主亀井茲政によって建立され、初代藩主政矩の墓所があります。
この寺は「御陵衛士の最後の屯所」でもあります。熱烈な勤王主義者、伊東甲子太郎(かしたろう)は学問もでき剣は北辰一刀流の名手で、新撰組に入って参謀となりました。
ところが、隊長近藤勇と意見があわず、慶応3年3月同志14名をつれて新撰組と分れました。孝明天皇の御陵衛士に任命されたのを契機に、同年6月からこの寺を屯所としました。
それからは薩摩藩の援助をうけ、各藩を廻ってさかんに勤王を説きました。しかし新撰組との対立は深く、同年11月伊東は新撰組に謀殺され、同志3名も斬られて、御陵衛士隊の活動は終わります。
高台寺の参道に来ました。
「高台寺」は正式には高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉の没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね)が慶長11年(1606)い開創した寺です。寛永元年(1624)には建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号しました。
当時の政治的配慮から、徳川家康が造営に多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗をきわめたといいます。(まだ青い葉が多いですが、写真は12月4日なので現在どうなっているか分かりません)
庫裡 この左側に拝観受付があります。
「湖月庵」 その向こうに「鬼瓦席」があります。
「遺芳庵」 鬼瓦席と共に、灰屋紹益と吉野太夫好みの、高台寺を代表する茶席だそうです。
「偃月池?えんげついけ)」にある「観月台」に回廊がつながっています。
---------記事の途中ですが、お知らせです---------
明日の12月13日(日)、BS朝日、朝8:00~8:55、
「熱中世代 大人のランキング」という番組で、私が撮った写真(清水寺3枚と祇園白川の桜1枚)が使われるそうです。お時間があればご覧ください。
※ゲストはきたやまおさむさんです。
※東京・八重洲のアンテナショップ『京都館』の取材で“いま注目している京都の名所ベスト5”の第一位が清水寺だったそうで、写真の依頼を受けました。
写真には「京都を歩くアルバム提供」と書かれます。
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拝観順路は、書院から入り方丈前庭を見るようになっています。
正面に勅使門、白地の紋様はしばしば変わります。
塀の向こうはお隣にある霊山(りょうぜん)観音
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