法金剛院 蓮の花咲く
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
蓮の花は早朝に咲いて、昼までには閉じてしまうということで、少し早起きして法金剛院に出かけてきました。
双ヶ岡の南東のこの地には、平安時代の初めに右大臣清原夏野の山荘があり、その没後寺に改められて双丘寺と呼ばれました。
境内には様々な珍しい花が植えられていたので、このあたりの花園という地名の由来になったそうです。当時の天皇が相次いで訪れ、仁明天皇(在位833-850)は、境内北の山から見えるこの景勝に五位を与えたことから、山は五位山と呼ばれるようになりました。
その後、文徳天皇(在位850-858年)の勅願によって大伽藍が建てられて定額寺となり、天安寺と改められました。しかしながら、火災などで寺は次第に荒廃していきます。拝観受付を済ますと、さっそく蓮の花がお出迎えです。
大治5年(1130)待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、寵愛を受けた養父・白河法皇を追善するために、天安寺跡地に仁和寺の御堂を建立して、法金剛院と名づけました。
庭園は池泉回遊式浄土庭園で、池の蓮がところどころで咲いていました。
待賢門院は、西方極楽浄土の世界を再現するため、仁和寺の伊勢房林賢と徳大寺の静意に作庭を命じました。最初に池を一周してきます。
径が140m以上の広大な池泉のほとりには白砂を敷き、中島へは欄干付の反橋が架けられていたそうです。
池の南に南御堂、東に宸殿(女院の御所)、西に西御堂(阿弥陀如来像を安置)を建てて、西方浄土を拝むようになっていました。
現在池の西に見える建物は本堂で、江戸時代・元和3年(1617)に再建されたものですが、正面の唐破風造の車寄は大正5年(1916)の建築です。
池泉には極楽浄土に咲く花とされる蓮が植えられ、境内に植えられた桜、菊、紅葉とともに花の名所となり、西行などの歌にも歌われました
現在の池泉は、かって瓢形をしていた池の北側のごく一部だそうです。
池の中は白い蓮ばかりでしたが、その周囲には様々な蓮の鉢が置かれています。
池を一周した後、本堂(礼堂)に上がりました。周囲の襖には(奉納された?)蓮の写真がいっぱいでした。本堂の裏には新しい阿弥陀堂があり、本尊の阿弥陀如来が安置されています。
阿弥陀堂から北にある地蔵堂まで廊下が続いています。中には入れませんが、ここから裏庭の向こうに双ヶ丘が見えて、かっての風景がしのばれます。
もう一度境内に降りて、池の北側を見て回ります。
青女の滝 待賢門院は池泉に注ぐ水源として、巨石を用いて「青女(せいじょ)の滝」を造らせました。青女は秋の神で、霜と雪を降らすのだそうです。滝からは遣水が引かれて池泉に流れ込んでいました。
昭和43年(1968)に発掘、後に復元された「青女の滝」は、「日本最古の人造の滝」として昭和45年(1970)に国の特別名勝に指定されました。ちなみに、国の特別名勝は現在36件だけだそうです。
ところで、待賢門院は絶世の美女といわれ、白河法皇の孫の鳥羽天皇の中宮となり7人の子供をもうけました。その後、養父の白河法皇の子ももうけたともいわれています。
また、生家の徳大寺家に家人として仕えていた西行とも親しくなり、彼が出家した原因とも考えられています。
待賢門院は、譲位後の鳥羽上皇としばしばこの地を訪れましたが、鳥羽上皇が美福門院得子(びふくもんいんなりこ)を寵愛するようになってからは、この寺で時を過ごすようになったそうです。
一方、出家した西行は嵯峨野に庵を構え、この寺をしばしば訪れたそうです。
待賢門院と美福門院の対立は、朝廷の中だけでなく当時の新興勢力の源氏と平家も巻き込んで大きな争いに発展するのですが、これ以上書くスペースがありません。
いずれにしても、待賢門院にとって、法金剛院が現世を超えた極楽浄土というわけにはいかなかったようです。
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