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※写真は全て拡大します。
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)、地元では「御香宮さん」(ごこうぐうさん)と呼ばれています。 石柱などの下の部分が被われていますが、お祭りでお神輿が出て賑わうためガードされているそうです。
御香宮神社
豊臣秀吉は天正18年(1590)、願文と太刀(重文)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領300石を献じた。その後、徳川家康は慶長10年(1605)に元の地に本殿を造営し社領300石を献じた。慶応4年(1868)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。
表門は元和8年(1622)、徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進。

正面を飾る中国24孝を彫った蟇股で、向かって右から、楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいます。

この辺りは「御香宮門前町」
通りの南側は伏見奉行所と隣接し(昨日の記事)、「鳥羽・伏見の戦い」の時には通りを挟んで神社には薩摩藩を中心に官軍が、伏見奉行所には幕府の伝習隊、会津・桑名の両藩そして新撰組などの幕軍が陣を構えて伏見の戦いの主戦地となった。
通りは大手筋と言い、豊臣秀吉の城下町で、伏見城の大手門に通じる道でした。
鳥居の向こうの緑の高架は近鉄。その先に伏見の代表的商店街の大手筋が続きます。

京阪の先、大手筋商店街に入った所にあるのが・・・「此付近 伏見銀座跡」の石碑。
「これより北方は江戸時代のはじめ、徳川家康によってはじめて銀座がおかれたところである。銀座とは、鋳を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、特権商人によって構成される。
関ヶ原の戦いが終わった翌慶長6年(1601)5月、家康は後藤庄右衛門、末吉勘兵衛に銀座取り立てを命じ、この地に四町の屋敷を与えた。有力商人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技術をもつ大黒常是(だいこくじょうぜ)が鋳造を担当し、銀座会所、座人屋敷が建ち並んだ。これが江戸時代銀座ののはじまりである。慶長13年、銀座は京都中京の両替町へ移され(のち江戸、大阪などにも設置)、伏見銀座は廃止されたが、銀座の地名を今にとどめている。」

ここからやっと御香宮神社です。
拝殿 寛永2年(1625)、徳川頼宣の寄進。正面軒唐破風は、手の込んだ彫刻によって埋められています。平成9年6月に半解体修理が竣工し極彩色が復元されました。

向かって右は「鯉の瀧のぼり」、龍神伝説の光景、左は琴高仙人が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写している。

中央に「葵の紋」左右には「菊の御紋」「五七桐紋」・・・3つの紋がw(゚o゚)w
◆銀杏が美しい御香宮神社はこちらです。

本殿 慶長10年(1605)徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立された。
当社の名の由来となった清泉で「石井の御香水」として、伏見の七名水の一つで、徳川頼宣、頼房、義直の各公は、この水を産湯として使われた。

本堂 極彩色の鮮やかな装飾です。

◆伏見奉行所から移築された小堀遠州ゆかりの石庭はこちらです。
境内から・・・絵馬堂 ◆絵馬堂の記事はこちらです。

金網の張った絵馬・・・左甚五郎作(確かそう聞きました)
何度も登場しますが・・・可愛い神馬さん。

そしてこの狛犬さん

なんとも可愛い。

10月に入って、秋のお祭りの季節になりましたね。
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伏見城跡の残石がゴロンと。

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