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天龍寺は現在本玄関・庫裏が改修工事中で、他のお堂も参拝が出来ません。工事期間は平成24年12月10日~平成26年3月末日とのことです。
という訳で、庭園だけを見ていくことにしました。
天龍寺は臨済宗天龍寺派大本山で、京都五山の第一位です。ところが、天龍寺ほど繰り返し火災に見舞われ、修復を繰り返した寺は珍しいといわれています。
歴応2年(1339)後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建。(写真は大方丈、工事中ではありませんが、参拝できません)
夢窓国師は資金調達のため、長らく途絶えていた元との貿易(天龍寺船)を進言し、康永2年(1343)にほぼ七堂伽藍が整った。(大方丈を通して見た曹源池方向)
このとき、博多の商人を推挙して、瀬戸内海に横行していた海賊などからこの船を保護する見返りに、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納めさせたそうです。
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曹源池(特別史蹟名勝)、夢窓疎石が作庭の廻遊式庭園。
池の前庭には州浜形の汀や島を配し、嵐山や亀山を借景として取り入れている。
正面中央の登龍門の故事になぞらえた龍門の滝。通常の鯉魚石は滝の下に置かれているが、ここは滝の流れの横に置かれ、龍となる途中の姿を表わすとのこと。
天龍寺は創建後、延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安四年(1447)にそれぞれ火災で多くの建物が消失し、その都度再建されている。
さらに、応仁2年(1468)には、応仁の乱の戦火に巻き込まれて焼失している。
応仁の乱後火災も少なくなり復興が始まったが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興は進まなかった。
その後、文化12年(1815)に火災に遭い、元治元年(1864)にも「蛤御門の変」で長州兵の陣所となり、兵火のためにまたも焼けている。
明治32年に龍を描いた画伯と当時の管長の遺徳を伝える硯石。この「硯石」を拝むと、書画が上達すると伝えられている。
北門、ここから竹林の道に出られますが引き返すことにします。
天龍寺は、明治9年に他の臨済宗各派と共に独立して天龍寺派を公称し大本山となった。その後、復興事業も始まり明治32年に法堂、大方丈、庫裡、大正13年に小方丈、昭和9年に多宝殿などが再建された。
中国から伝来した平和観音像。その名は、夢窓疎石は観音菩薩を持念仏として信仰し、南北両朝の和解に尽くしたことに由来する。美しい姿です。
大方丈を通して、曹源池から中門方向。
最後に、帰り道で見かけた花たち
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この後、蓮の花が咲いているもう一つの寺院を訪れます。
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