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広沢の池の3回目です。
昨日の記事で書くのを忘れていたので・・・「嵯峨富士」の名をもつ『遍照寺山』。
広沢の池は宇多天皇の孫、寛朝僧正が、この地に遍照寺を建立された際、つくられたといいます。
広沢の池の辺りは「千代の古道」(ちよのふるみち)と言われます。
平安京ができる前から宇多野・嵯峨野へと通じた古道で、平安貴族がお月見など北嵯峨に遊行の折に通った道といわれます。
雙ケ岡―常盤―鳴滝―広沢の池を結び、新古今集の藤原定家の歌など多くの歌にも詠まれている。しかし道筋は地元自称など諸説があり、定かではない。なかには歌の上だけの道とする説もある。地名に「嵯峨野千代の道町」がある。(説明は駒札)
「千代の古道」の石碑
この日、千代の古道の石碑はバスを降りた「山越」の佐野藤右衛門邸の植林と、児神社の2ヵ所で見ました。嵯峨野の美しい田園風景の中にも石碑がありますよ。
この辺りには・・・寛朝僧正の念持仏を安置する「遍照寺」や、僧正の死を悲しんで身をなげた子供の霊を祀った「児神社」など、寛朝僧正ゆかりのものが多いです。
広沢の池から南の方に4-5分行くと・・・遍照寺があります。
遍照寺 (広沢不動尊)
遍照寺は十世紀末(989年)平安時代中期、寛平法皇(宇多天皇)の孫、寛朝僧正(一品式部卿敦実親王の二男で宇多天皇の孫にあたる。真言密教の秘法を極め真言宗で始めて大僧正に昇られた高僧。真言宗広沢流の流祖)が、広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものである。
嵯峨富士と云われる端麗な遍照寺山を映す広沢池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があった。池畔には多宝塔、釣殿等、数々の堂宇が並ぶ広大な寺院であった。
しかし寛朝僧正没後次第に衰退し、鎌倉時代、後宇多天皇により復興されたが後、応仁の乱で廃墟と化した。
奇跡的に難を逃れた赤不動明王像と十一面観音像は、いずれも創建当時の作で定朝の父、康尚の作と云われる。現在国指定の重要文化財。 赤不動明王は”広沢の赤不動さん”と地元の人に親しまれている。
毎月28日は不動護摩が焚かれ、住職の法話が有り、写経(500円)も出来る。
◆五山送り火の日・・・遍照寺・広沢池灯籠流しが行われます。
本尊十一面観音立像と赤不動と呼ばれる不動明王座像にちなみ、赤・白・黄・青・紫の五色の灯籠が 広沢池に浮かべられます→こちらの記事です。
源氏物語「夕顔」ゆかりの地
紫式部が20才の頃、遍照寺に具平(ともひら)親王と大顔がお忍びでお月見に出かけたが、月見を楽しんでいる最中、大顔が消え入るように急死した。
このことで紫式部の父と伯父は、残された子どものためにも奔走することとなった。
村上天皇皇子の具平親王は博学多才で有名だが、大顔は親王家に仕える雑役の女性だった。この身分違いの恋や、遍照寺の事件は源氏物語「夕顔」の土台になったといわれ、光源氏と身分違いの恋をしていた夕顔は、大顔がモデルとされる。(京都市の看板:源氏物語ゆかりの地より)
-----続いて------広沢の池の畔にある「児神社」(ちごじんじゃ)。
児神社(ちごじんじゃ) 創立年月不詳
祭神は寛朝大僧正の侍児。
長徳4年(998)6月、寛朝大僧正が、遍照寺山腹の老松から龍となり、静かに昇天してゆくのが見えたという。
残された児は、悲嘆・悲泣し、後を追い、山腹下に広がる広沢の池に身を沈めた。
近在の人々がこの児を哀れと思い、霊を慰めんと創建された。
なお、寛朝大僧正がこの広沢の池畔で座禅の折、傍らでいつも児が腰を掛けていたという石椅子が、境内地に移し置かれいつしか神前で一心に祈願し、この石に座れば、必ず長命・安産・縁結びが叶うと伝えられるようになった。
大木の根元に柵を巡らせた処ありますが・・・多分それが石椅子だと思います。(近づいて写真を撮って無くて)
遍照寺は当時の広大な面影はありませんが、広沢の池を巡りながら様々な平安貴族への想いをめぐらして歩くのも良いかと思います。
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