乙訓寺 牡丹と弘法大師の古刹
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長岡天満宮から北に歩いて20分程度のところに乙訓寺(おとくにでら)があります。
大慈山乙訓寺 長谷寺の末寺で真言宗豊山派、推古天皇の勅願で聖徳太子が開いたといわれ、乙訓地方最古の寺です。
表門(長岡京市指定文化財)は江戸時代(1695)建立の四脚門です。
門を入ると両側が牡丹の花壇となっています。乙訓寺の牡丹の始まりはそれほど古くはなく、昭和15年頃のことです。かっては表門から本堂まで続く松並木が美しいことで有名でした。
それが、昭和9年の室戸台風でほとんどが倒木し、応仁の乱も生き延びたと伝わるモチノキや弘法大師お手植えの菩提樹も多大な損害を受けてしまいました。
乙訓寺第19世海延の伯父、長谷寺第68世能化(住職)海雲全教和上が、被害著しい境内をご覧になり、長年育てていた牡丹のうち2株を寄進したのが始まりです。
その後、乙訓寺の歴代住職らの尽力によって約2000株に増え、美しく境内を彩る牡丹の寺として知られるようになったのです。
乙訓寺の歴史は古く、古墳時代に遡ります。518年、第26代継体天皇は、筒城宮(つつきのみや、現在の京田辺市多々羅都谷)から、弟国宮(おとくにのみや、現在の長岡京市今里付近)に遷都し、乙訓寺は当時の宮跡ともいわれています。正面は十三重石塔
飛鳥時代(603年または620年頃)、第33代・推古天皇の勅命により、聖徳太子が乙訓寺を創建し、自刻の十一面観音を本尊としたといわれます。
奈良時代(784)、第50代・桓武天皇による長岡京遷都に際しては、「京内七大寺」筆頭となり、都鎮護の寺として大増築されました。日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)
その後、乙訓寺で日本の歴史に残る二つの大きな出来事がありました。十三重石塔の前にある「黄冠」、黄色い牡丹は珍しいのか数株しかありませんでした。
一つは、日本密教の原点を作った弘法大師空海と伝教大師最澄がこの寺で最初に出会い、日本の仏教が大きな発展を遂げる要因をつくったことです。弘法大師立像
弘法大師は、弘仁2年(811)に嵯峨天皇から乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に任命されました。
翌年、弘法大師と同時に入唐したが早く帰国していた最澄がこの寺を訪れ、空海に真言の法を教えてほしいと頼みます。向こうの木は、空海の手植えといわれる菩提樹。
大師は親切丁寧にその法を伝授しました。二人はその後も交流を深め、それぞれ真言宗と天台宗を確立して、日本仏教の流れに大きな変革を与えました。
もう一つの出来事は早良親王事件です。早良親王 (さわらしんのう)は、桓武天皇の実弟で、桓武天皇の即位に伴い皇太子となります。鎮守八幡社(長岡京市指定文化財)、江戸時代、1695年建立、。
長岡京遷都の翌年(785)、長岡京造宮長官・藤原種継が暗殺され、暗殺団と見られた一味と交流があった早良親王は事件に連座してしまいます。本堂(長岡京市指定文化財)は江戸時代(1695)の建立で、かつては大師堂とよばれ、本尊・合体大師像(重文)を安置。
早良親王は皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉されました。親王は身の潔白を示すため断食しましたが、10余日後に流罪処分となり淡路島に護送されます。
親王は護送途中に淀川べりで絶命しますが、遺骸はそのまま送られ淡路に葬られました。
その後、天皇の母や皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行や天変地異が発生し、早良親王のたたりと恐れられました。聖観世音菩薩像
結局、朝廷は事件15年後に早良親王を復権し、崇道天皇と追号して陵墓を奈良に移すなどの措置を講じました。鐘楼(長岡京市指定文化財)は、建立年不明ですが、牧野成貞寄進ともいわれています。
現在、全国にある「御陵神社」や「春秋の彼岸行事」も、早良親王の怨霊鎮めが元になっているともいわれます。
また、弘法大師の乙訓寺別当就任は、宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待したという説もあります。早良親王供養塔
平安時代、宇多天皇は寛平9年(897)の譲位後、仏門に入り乙訓寺を行宮(あんぐう、仮宮)として堂塔を整備しました。このため、法皇寺と号しました。
室町時代には、衰えたりといえども十二坊ありました。しかし、内紛があり、足利義満は僧徒を追放して南禅寺の伯英禅師に与え、一時禅宗となります。その後、織田信長の兵火でさらに衰微しました。上の絵馬は、悪行を戒めているところ?
江戸時代 隆光は長谷寺で修学後江戸に出て、将軍綱吉の信任を得て、将軍の祈祷寺・江戸護持院住職となります。彼は、乙訓寺を請い受けて自ら住職となります。健脚祈願のわらじ
クロガネモチ(長岡京市有形文化財、天然記念物)、樹齢400-500年と推定され、前述の室戸台風で幹が折れたが蘇生したそうです。クロガネモチとしては、京都府内でも屈指の大きさといわれています。
綱吉は寺領百石を寄進して徳川家の祈祷寺とし、諸大名・公卿の信仰も集まりました。隆光は乙訓寺中興第一世として、寺を再び真言宗に改め、堂宇の再建、乙訓寺法度の制定など、復興に尽くしました。当時の寺域は8200余坪あったとか。
明治の廃物棄釈、第二次世界大戦後の農地改革など、苦難の経過をたどりますが、現在では「今里の弘法さん」と親しまれた伝統と牡丹の名所として知られています。
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