金福寺 2 芭蕉庵
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昨日に続き金福寺です。
金福寺の入口にある、村山たか女が奉納したとされる弁天堂。
村山たか(村山たか女)
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会い、その数年後直弼が長野主膳と出会いたかとも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては史上初めて名をとどめる存在である。
1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで死罪を免れた。
その後金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。墓は金福寺の本寺である円光寺(圓光寺)にあり、金福寺には詣り墓がある。
◆たか女のお墓のある圓光寺は→こちらです。紅葉の頃に訪れたもの。
芭蕉庵の方へゆきます。
芭蕉庵の屋根
芭蕉庵から
芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。
元禄時代に鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したために、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年(安永5年)再興された。
与謝 蕪村の墓
与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん) 江戸時代中期の日本の俳人、画家。
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