晴明神社から歩きました。
←目次 からたっぷり京都をご覧ください。2006・1・27から毎日更新。
皆様、ただいまです。m(_ _)m。
疲れているかも・・・ということで既に作っていた記事です。
晴明神社 (せいめいじんじゃ) ◆地図です。
天文博士 安部晴明を祀っている。 晴明は主雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の元朝に仕え、天文学に通じ、移りゆく星をみて宮中の変革、遠国の吉凶を判断したといわれ、一条天皇の時に天文博士となった。寛弘2年(1005)亡くなったが、その後、一条天皇によって晴明の邸址に当社が創立された。
晴明の邸は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売の各通りに及ぶ広大なものであったが、これを社域とした当社も、その後、たびたびの戦火によって衰えたままであったのを、近年清明九町組を中心とする崇敬者によって復興され、年をおって現在の規模になった。 上京区葭屋町一条上る晴明町
千利休(1522~91)は豊臣秀吉に仕え,秀吉が天正14(1586)年に聚楽第を造営すると,その周囲に邸宅を構え茶会を催した。『茶道要録』には邸宅の位置を「葭屋町通り元誓願寺下ル町」と記し、晴明神社の地に隣接する。この石標は千利休の聚楽屋敷を示すものである。千利休は、秀吉に切腹を命じられ1591年2月28日京都聚楽第の屋敷で切腹しました。70歳でした。
一条戻橋(いちじょうもどりばし) 一条通の堀川に架かる橋
延喜18年(918)文章(もんじょう)博士・三善清行が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列はちょうどこの橋の上を通っていた。浄蔵は柩にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説から「戻橋」と名付けたという。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱が深夜この橋の東詰で、容貌美しい女子にやつした鬼女に出会ったという伝説もあるところである。縁談ごとには避ける風習。一条戻り橋
堀川遊歩道にて「京の七夕」が15日(月)まで行われます。
◆公式サイト→ 堀川会場 鴨川会場
小野小町双紙洗水遺跡
謡曲「草(双)紙洗小町」によると、宮中の歌合で、小野小町の対戦相手大友黒主は、小町の歌が万葉集の古歌からの盗作であると訴え、証拠の万葉集の草子を突きつけた。これをよく見ると加筆した跡があり、小町が庭の遣り水で草子を洗うと歌の文字が流れ消えたという。この石標は、小町が草子を洗ったと伝える跡を示すものである。なお、かつてこの地には清和水や更級水とも呼ばれる京都の名水が湧いていた。
一条下り松遺跡 (上京区元誓願寺通小川東入)
この附近は宮本武蔵との決闘で名高い吉岡の道場があったところで、その裏庭に松があり下り松といわれ、そこで決闘がなされたと伝える。一乗寺下り松は、この一条下り松が誤り伝えられたものという説がある。この石標は、聚楽第周囲に住んでいた諸侯の屋敷跡や吉岡一門の道場にあった下り松の跡を示すものである。
古来より魔よけとされている鐘馗(しょうき)さん、この辺りの古いお宅で見かけます。
◆鐘馗さんにつきましては上七軒で撮った記事をご覧ください→こちらです。
狩野元信亭址
室町幕府の御用絵師・狩野元信と子孫の居住地。元信は文明8年(1476)ここで生まれ永禄2年(1559)84歳で没したが屋敷は松栄・永徳と続き、その子・弟子が京狩野の面業を守る。元信が狩野派300年の基礎を固めた屋敷跡も今は石碑を残すのみ。
乾向地蔵尊
此付近慶長天主堂跡(駒札)
この付近に、慶長9年(1604)頃に復興されたヤソ会の天主堂教会があった。京都でのキリスト教布教は、織田信長の保護のもとに本格化し、南蛮寺も建てられたが、天正15年(1587)豊臣秀吉が宣教師追放令をしき、弾圧した。秀吉の死後、宣教師らは布教の許可を得ることと寺の再建に努力した。関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると、再びキリスト教布教が自由となり、この地に、新しい天主堂が復興された。旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行なわれた。付近には学校も設けられた。しかし慶長17年(1612)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始、天主堂も焼き払われてしまった。慶長天主堂が立ったのは、10年に足りない期間であった。上京区油小路通元誓願寺下る(中央図書出版社地)
薩摩島津家の家老小松帯刀の寓居跡の有力候補地
千宗旦(利休の孫)の次男宗守が寛文年間(1661-75)に造った武者小路千家(茶道三千家の一つ)の茶室。江戸期に3回焼失、明治初めの再建。官休庵ほか半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵など名席を飛石でつなぎ、中門の‘編笠門’石灯籠などを含め露地庭園は雅趣に富む。(非公開) 起風軒茶室 平成5年建設
カラタチ(枳殻、枸橘)原産地は長江上流域。
日本には8世紀ごろには伝わっていたといわれる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。鋭い刺があることから外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく使われた。
説明は「京都観光情報Navi」「フィールド・ミュージアム京都」から。
とりとめもない紹介になりましたが、この辺りに興味のある方の参考に、少しでもなればと思います。
留守中もたくさんコメントをいただきまして有り難うございます。m(_ _)m
昨日の記事のコメントの返事は、本日ゆっくり拝見して書かせていただきます。有り難うございます。
知りませんでしたが・・・ずっと2位に落ちてたのですか・・・アラァー
◆応援宜しくお願い致します。m(_ _)m
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