今日は醍醐寺に入ります。三宝院であれだけ人が多かったのに、参道を歩くだけなのに「あれ~なんで~」というほど人が少なくなります。
4月の第二日曜日に「太閤の花見行列」が行われます。この写真は2日なのでまだ参道のソメイヨシノは3分咲きくらい。仁王門が工事中なのもあって、来る人が少ないのかも。(ツアーは三宝院だけ?・・・醍醐寺は広過ぎて迷子になるからやね)
醍醐の花見
慶長3年(1598)、豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」は特に有名で、秀吉最後の栄華を極めた。嫡子秀頼、北政所、淀殿それに諸大名から配下の者まで約1300名を従えて盛大に催した花見の宴です。
仁王門が1年以上工事の為に覆いがかかってますので、古い写真ですが横から。正面は過去記事に入れてます、新緑の桜で門が隠れた状態なのでこれにしました。豊臣秀頼が再建した仁王門(西大門)をくぐると、広大な下伽藍になります。仁王門の外は桜、入ると紅葉の道です。
醍醐寺(だいごじ) 真言宗・醍醐派・総本山。山号 醍醐山(深雪山とも)。
本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。(Wikipedia)
醍醐寺には何度も行ってます。夏の夜の提灯の灯りの中の御祭りもありますので、目次の 13 伏見 山科、醍醐 と ■ 四季の京都めぐり桜 も見てください。
醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。
1939年夏、上醍醐を襲った山火事で短時間の間に、経蔵など点在する建築が焼失した。(Wikipedia)
五重塔 (国宝)
国宝の五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した、京都府下最古の建造物。内部の壁画(国宝)は、日本密教絵画の源流をなすものといわれている。総高37メートル。
清瀧宮本殿 (重文) 鎮守で、室町時代の建物。桜も古そうです。
ここは「下醍醐」
本尊薬師如来を安置する「金堂」、「三宝院」などを中心に、上醍醐とは対照的な絢爛な大伽藍が広がります。
伽藍は応仁の乱によってほぼ全焼し、その後も幾度の火災によって焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は奇跡的に創建当時のまま現在に残る。
「上醍醐」は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で上まで1時間は要する。
過去記事で途中の「不動の滝」まで歩いています→こちらです。
金堂(国宝)
豊臣秀吉の命によって、紀州の湯浅から移築されたもので、主要部は平安末期の様式を完全に残している。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作(重文)。
金堂のなかでは法話をされていました。
去年と全く同じアングルですが、この桜が撮りたかった。
法話が終わったようです。
不動堂 (右)
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不動堂の横のお地蔵様。
この門(名前が分らない)をくぐると鐘楼、大講堂、弁天堂に。
大講堂
大講堂から林泉と弁天堂。
※ 醍醐寺の桜の開花状況 (11日) 醍醐寺HPより
紅シダレザクラ : 見頃 ソメイヨシノ : 散り始め
ヤマザクラ : 散り始め ヤエザクラ : 見頃
出し遅れの写真ですが、霊宝館前。閉門が迫っていて人がいません。これだけ桜があるのですから醍醐寺は桜のお寺ですね。(右は茶店、駐車場です)
こちらは総門。ここももう人はいません。土産屋さんも終い支度です。帰りに「雨月茶屋」でお善哉を頂くのが恒例になってしまいました。
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