京町通・魚三楼と伏見奉行所跡
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京都の社寺とお昼をいただく会に入っているって言いました。その会で行った伏見をお届けします。
今日は京町通りにある「京料理・魚三楼」と「伏見奉行所跡」です。
京町通(きょうまち どおり)
伏見築城に際して、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」であると思われる。この通りを北上すれば京都南座の側を通り遠く大原の里まで続いている、まさに京へ通ずる道である。この通りの北端にはかつて、「伏見インクライン(傾斜鉄道)」が鴨川運河と濠川を結んでいた。
江戸時代、京町1丁目と2丁目の間に伏見奉行の西門があり、京町3丁目と讃岐町の交わった場所に伏見奉行所の高札場が設けられ、俗に「札の辻」と呼ばれた。明治維新「鳥羽・伏見の戦い」の折には官軍と奉行所の幕軍が白兵戦を繰り広げた。
今も当時の戦いの激しい様子を伝える弾痕を残す民家も現存する。
その「弾痕を残す民家」 として「京料理・魚三楼」があります。
幕末、新政府軍と幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いでは、魚三楼の前・京町通に布陣した新撰組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだといわれています。表の格子には当時の銃撃戦の弾痕が保存されています。
初代三郎兵衛が高級魚専門の料理屋を構えたのが始まりで、以来水陸交通の要衝・伏見港にあがる鮮魚と京野菜、そして豊かな伏見の銘水「伏水」を使った京料理のお店として歴史を重ねてきました。鳥羽伏見の戦い当時は官軍の台所番を勤めていたほどで、正に「魚三楼」は伏見が誇る京料理のお店として、現在9代目がその伝統と技を今に生かし輝かせています。(魚三楼HPより)
魚三楼 (うおさぶろう) ここでお昼をいただきました。
花籠御膳 これに松茸のお吸い物と季節のかやくご飯がつきます。
伏見は平安時代には鳥羽と並ぶ貴族の別荘地であったが、都市として繁栄したのは、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築き、城下町として伏見港を整備してからである。
江戸時代には三代将軍徳川家光の時に豊臣ゆかりの伏見城を完全に壊し、寛永元年(1624)に富田信濃守の屋敷のあった場所に伏見奉行所を建設した。その場所は現在の桃陵団地の敷地で伏見城の跡地への入り口と港を監視する位置にある。
伏見奉行所跡を中心にした地図です。(拡大して下さい)伏見桃山城は右方向。
◆桓武天皇陵と桃山丘陵はこちらです。←伏見桃山城はこちらでご覧ください。
伏見奉行所跡 桃陵団地西入口に石碑が建っています。
伏見奉行所は、慶長5年(1600)に創設されたが、実際は寛文6年(1666)水野石見守忠貞(1597~1670)が伏見支配に専念するようになったのを最初とする。与力10騎、同心50人が属し、伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配した。慶応3年(1867)廃止。慶応4年(1868)正月3日の鳥羽伏見戦では、幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り、御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼に帰した。この石標は伏見奉行所の跡を示すものである。
明治維新の時(1868)幕軍のたてこもる伏見奉行所は、官軍の攻撃により焼け落ちた。明治時代以降、陸軍の土地となりました。
薩摩藩が陣をはった御香宮、寺田屋にも行きました。また記事に致します。
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