2008年・秋 修学院離宮 5 御茶屋
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秋の修学院離宮の5回目で御茶屋です。
最後にとってあった訳ではないのですが、建物はついつい延ばし延ばしにしていました。今日は御茶屋の建物を中心に・・・・景色も少々。
修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋、下御茶屋の3ヶ所の庭園からなります。各御茶屋の周りに広がるの田畑の中を細い松並木道が結んでいます。
上御茶屋と下御茶屋は・・・後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、明暦元年(1655)から万治2年(1659)にかけて江戸幕府が造営した離宮です。
中御茶屋は・・・同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、明治18年(1885)に修学院離宮に編入されました。
紅葉の頃は通常より多い53人で参観です。
下御茶屋 (下離宮) 寿月観
池泉観賞式庭園、門・塀以外の建物と柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物。
水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。
寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。
下離宮を後に・・・。
中御茶屋 (中離宮)
後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために寛文8年(1668)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。
朱宮御所は上皇の死後、林丘寺という寺に改められ、明治18年(1885)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。
書院造の客殿は、延宝5年(1677)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。
客殿
客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。
祇園祭の鉾 住吉具慶筆の杉戸絵
作者不詳 鯉の図 生きているように鮮やかな鯉。逃げ出すそうです。
・・・で、鯉が逃げ出さないように80年後に円山応挙によって網が描かれた。でも、網を破って逃げ出すそうですよ。裏面も同じように鯉の図。(こちらは1尾)
客殿の前庭
続いて松並木をもう一度通って上御茶屋(上離宮)に向かいます。
上御茶屋 (上離宮) 隣雲亭
隣雲亭は文政7年(1824)の再建で、展望を目的とした、装飾のほとんどない簡素な建物で、床(とこ)・棚も設けていない。ここで5分休憩します。
隣雲亭からの景色。 この刈込みをぬって隣雲亭に上がって来ました。
浴龍池へ・・・滝が見えます。
窮邃亭(きゅすいてい)
窮邃亭は修学院離宮において創建当時のまま残る唯一の建築で、三間四方、柿葺、宝形造(ほうぎょうづくり)。内部は18畳1室である。
浴龍池の西浜から見た窮邃亭
1時間20分ほどで駆け抜けた修学院離宮の参観でした。
ゆっくりカメラを構えることも出来なかった撮影でしたが、いかがでしたでしょうか。
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中国風の千歳橋です。
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