奥嵯峨 祇王寺 2 苔の庭
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祇王寺
現在の祇王寺は、昔の往生院の境内である。往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、 山上山下に亘って広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になりました。
祇王、仏御前の物語を「平家物語 巻の一」から
平氏全盛の頃、都に白拍子の上手「祇王と祇女」という姉妹がいました。
姉の祇王が清盛の寵愛を得、妹の祇女も有名となり、毎月百石百貫の手当てもあって安穏と暮らしていました。
ある日、仏御前と呼ばれる白拍子が清盛の館にやって来て、舞をお目にかけたいと申し出ました。
「祇王がいるところには叶うまいぞ」と追い返したものの、祇王が「私も同じ白拍子の身」と取り成して、今様(いまよう)を歌わせました。
すると、昨日までの清盛の祇王への寵愛は何処へやら、清盛は仏御前に心を移し祇王を追放します。
もとの貧乏暮らしに戻った祇王の家族に代わり、仏御前の家族は栄えます。
翌年、清盛は仏御前が退屈しているからと祇王を無理矢理呼び寄せました。
はるか下の座敷に祇王が通されたのを知った仏御前は気の毒でなりません。祇王をこちらへ通し自分には暇を出して下さいと願いますが清盛は聞き入れませんでした。
「かくて都にあるならば 又うき目を見むずらん 今は都を外に出でん」と言い、祇王(21才)、祇女(19才)、母刀自(45才)3人は尼となり嵯峨野のこの地で仏門に入りました
母子三人が念仏しているところに竹の編戸をたたく者が。。。
清盛の館を抜け出し剃髪して尼の姿でやって来た仏御前(17才)でした。
祇王は「わずか十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ」と4人で住むこととし、みな往生の本懐を遂げたのでした。
先ほどから緑の苔の絨毯の上で、のんびりお昼寝中なのは・・・まろみちゃんです。
◆壁紙 祇王寺・吉野窓とまろみちゃん・・・使ってくださいね。
サイズ:1280×1024 サイズ:1024×768 サイズ:800×600
竹林の道を抜けると、昨日紹介した吉野窓のある草庵に向かいます。
今日の写真はコースに沿って並べていません。
左が祇王、祇女、母刀自の墓 右が平清盛の供養塔です。
※今日16日は五山送り火の日です。
陸前高田市の被災松の件では対応が2転3転して、京都市民として残念な気持ちです。放射能が検出されなかった最初の松のときに、幅広い市民の意見を聞いておけば、こんな結果にはならなかったと今でも思っています。今年は少し複雑な感情ですが、近しい故人と震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
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もう16-7才になっていると思います。まろみちゃん、いつまでも元気でいてね。
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