紙屋川 竹林寺 威徳水 御旅所
←新しく来て下さった方は 目次 もご覧くださいね。
4年半以上、毎日・毎日・・・ブログを続けていると・・・何とタイトル付ければ良いのか・・・
悩んで無駄な時間が過ぎて・・・今日は写真を入れるところを羅列しました。
そして・・・以前ならボツにしてた街角風景なども入れちゃってます。m(_ _)m
ずいき祭の時間潰しに廻って歩いたところです。
竹林寺 五台山 法泉院 (赤門の竹林寺)
浄土宗西山禅林寺派・永観堂の末寺。弘安2年(1279)、顕意道教上人(時宗の一遍上人が一歳年下の兄弟僧)の開基以来720年余の歴史を持つ古刹。本尊は阿弥陀如来。
乾第十五番札所で藤原時代初期の作と伝えられている一木等身の十一面観世音菩薩を安置。但馬の生野の変(文久3年)で捕らえられ処刑された平野国臣や三条小橋の池田屋騒動(元治元年)で新撰組に捕えられた古高俊太郎ほか勤皇志士37士の墓がある。
平野国臣以下三十七士の墓(竹林寺) (駒札)
平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同志とともに尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、元治元年(1864)7月19日、蛤御門の変のとき戦火に乗じて六角獄舎で、生野挙兵の同志、天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名ら勤王志士とともに斬首された。「憂国十年、東走西馳、成否在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ37歳の生涯をおえた。明治10年(1877)西の京刑場(西大路太子道一帯)あとから姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士三十七名の遺骨であることが分かり、あらためて当寺に移葬された。
扉が閉まっていたため入れないのかと思いましたら・・・どうぞって書いてましたね。
左が通称「だるま寺」 後ほど記事に致します。
今日は下ノ下立売通を西に歩いてゆきます。紙屋川に架かる橋です。
紙屋川
川の名前は平安時代に、この川の辺りで禁裡御用の紙を漉いた紙座があったことに由来します。
北野天満宮西付近から上流を紙屋川、下流を天神川と呼びますが、現在お河川法では上流から「天神川」と総称し全長は14キロ余です。
北区鷹峯大谷町を源にて南流、西ノ京円町を経て太秦東南で御室川と合流、南区吉祥院で桂川に流入する川です。
紙屋川といえば・・・
◆しょうざん芸術村・・・紅葉の頃に行っています→① ② 色鮮やかです。是非。
こちらは一条通りに掛る橋から紙屋川です。疏水みたいですね。
今更行っても遅いのですが・・・北野天満宮の御旅所です。
北野天満宮と紙屋川・・・といえば・・・御土居の紅葉。
◆御土居の紅葉の記事はこちらをクリック→① ② 鮮やかな紅葉に圧倒されます。
そして、御旅所の近くにあったのが・・・ 四之保社跡 威徳水 (駒札)
この地は、北野天満宮七保社のうち四番目に当る四之保社があったところである。
七保社とは、菅原道真が、大宰府で薨(こう)じた後、随徒の人々が帰京して、右京の地に建てたと言われている七ヶ所の御供所である。
保とは、元来、律令京師制の行政単位で、神社の神人居住区域を意味し、この地も、北野神人たちが居住し、商業などに従事する傍ら、神供調進にあたったといわれている。 当初、神宮寺新長谷寺が管掌し、藤原道長自作と伝える観音像を祀り、多くの帰依者を集めたが、元文5年(1740)に廃社した。
現在は、当時、威徳水と呼ばれ、病気平癒の御利益がある水として人々よりの信仰を集めた井戸跡のみが残されている。
なお、この付近の町名である中保町は、七保社のうち真中の四番目の保であったことからこのように呼ばれるようになったものである。中京区西ノ京中保町
今日は早々と紅葉の名所を紹介しました。
法輪寺(だるま寺)は またこんど記事に致します。
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もう一度 紙屋川 綺麗な流れです。
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