京都五山 第五位 万寿寺
京都五山 第五位 万寿寺(非公開) 場所はここ。 以下はWikipediaより抜粋。
万寿寺の起源は、平安時代後期、白河上皇が六条内裏に建てた六条御堂にさかのぼる。天皇が出家して上皇となったのも皇女の死がきっかけであったという。この御堂は、鎌倉時代には法然の弟子・湛空が住し、湛空から十地覚空に受け継がれた。この頃には天台系浄土教の寺であったと見られる。十地覚空とその弟子の東山湛照が東福寺の円爾弁円に帰依して臨済宗寺院となり、寺号も万寿禅寺と改めた。弘長元年(1261年)に開堂の儀が行われている。その後、文永10年(1273年)に火災に遭い、元徳2年(1330年)には後宇多院皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、高倉通の西、樋口小路(現代の万寿寺通)の南の地点に移転した。付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残る。
室町時代には当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(1434年)の火災後、衰微した。天正年間(1573-1592)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転した。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものという。
三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併された。明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っている。
『東福寺誌』によると、明治14年(1881年)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊とした。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物であった。
昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。
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■毎日新聞 2007年2月2日の記事です。
万寿禅寺:池跡を初確認 京都五山の一つ、火災示す瓦や礎石も--下京 /京都
京都五山の一つ「万寿禅寺」にあったとみられる池跡が、下京区間之町通五条下ル大津町で見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が1日、発表した。同寺の遺構が確認されたのは初。建物跡は未発見だが、何度も火災に遭った事実を示す焼けた瓦が大量出土し、焼けた礎石2個も出土した。
下京消防署新築工事に伴い、昨年11月末から約490平方メートルを発掘した。調査地は平安京左京六条四坊三町にあたり、平安後期にあった白河天皇の御所「六条内裏(だいり)」跡。白河上皇は1097(永長2)年、皇女の追善で内裏を仏寺「六条御(み)堂」にし、13世紀中ごろ浄土教から禅宗に転じた。1358(延文3)年には京都五山の五位になり、1591(天正19)年、現在の東福寺北側に移った。
池跡は地表面から約2メートル掘り下げた付近で発見。少なくとも3回改造され、徐々に規模が縮小した形跡があった。大きさは最も新しい時期で東西7メートル、南北13メートル、深さ50センチ程度。徐々に池の必要性は薄れたとみられるが、池自体は存続していたことが裏付けられた。
この他、礎石の大きさから柱は直径50センチで、大伽藍の存在が想像できる。川上貢・京都大名誉教授(日本建築史)は「寺の名残をうかがえる貴重な発見だ」とした。現地説明会は3日午前10時。現地事務所(075・344・8662)。【鶴谷真】
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