日本映画の黎明期を巡る 等持院と牧野省三
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先日の記事で、大正10年(1921)牧野は等持院境内にスタジオを建て日活から独立したことを書きました。その2年前に独立に失敗した牧野は、興行映画を制作しないという条件で牧野教育映画製作所を設立しました。
「等持院」は、山号を万年山という臨済宗天龍寺派の寺院で、足利将軍家の菩提寺でもあります。上と下は等持院の総門(南門)で、撮影所は門をくぐって参道の西(左手)にありました。
最初の独立騒動では自宅にミカド商会を設立、『処女会表彰記念式(広島県沼隈群処女会)』、『都に憧れて』、『忠孝の亀鑑 小楠公』の三本の教育映画を製作、人員不足から『都に憧れて』には省三の子供たちが総出演しました。
1921年6月牧野は等持院境内に撮影所を設立、9月には再び教育映画の製作を開始しました。しばらく歩くと等持院の境内の門があり、向うに墓地が見えます。
以下の記事は京都市メディア支援センターの「京都の映画文化と歴史」を参考に、映画と撮影所の写真はニッポン シネマレトロ キョウトの「撮影所アーカイブ」からの転載です。 下は等持院撮影所。
1922年牧野は無名の歌舞伎役者を起用して『実録忠臣蔵』を監督、それまでにない写実的演出を試み、大ヒットしました。等持院の「表門」(山門)
歌舞伎や講談の映画化ともいえる、定型的な立ち回りが特徴の古い松之助映画とは違い、斬新な演出手法と写実的な描写は、庶民だけでなく映画人や文化人にも高く評価され、劇映画の芸術的地位を高めたといわれます。
この間、阪東妻三郎らをスターに育て上げ、寿々喜多呂九平や二川文太郎などの映画人を輩出しました。1923年4月株式会社マキノ映画製作所を創立。以降、姓および会社名の「牧野」を「マキノ」へと変更しました。
教育映画社も吸収し、完全に日活と訣別。この年マキノへ入社した寿々喜多呂九平の脚本で『浮世絵師 紫頭巾』(1923年、金森万象監督 )を公開し、その斬新さによってマキノ映画が一躍注目されました。「方丈南庭」
1923年9月関東大震災により、東京の撮影所がほぼ全滅。蒲田撮影所が崩壊した松竹は、省三の協力により全従業員を一時等持院内に移しました。『鮮血の手型』(1923年、沼田紅緑監督、阪東妻三郎主演)、以下の映画の総監督はマキノ省三です。
1923年11月マキノキネマ株式会社を創立。12月八千代生命株式会社が阪神沿線甲陽公園内の甲陽キネマ撮影所を買収、東亜キネマ株式会社を設立。『國定忠治信州都落ち』(1924年、二川文太郎監督、坂東妻三郎主演)
1924年1月 日活、松竹、帝キネ、マキノの4社で、検閲の全国統一、引き抜き防止、配給制確立などを目的とした日本映画製作者協会を設立しました。『燃ゆる渦巻』(1924年、沼田紅緑監督、阪東妻三郎主演)
6月 マキノキネマが東亜キネマに買収・合併され、撮影所は東亜キネマ等持院撮影所として存続。マキノ現代劇部の一部が甲陽スタジオに移りました。『怪傑鷹』(1924年、二川文太郎監督、高木新平主演)
1925年3月等持院撮影所が火事に見舞われ、十万円の損失。同年4月直木三十三(後の三十五)と立花(根岸)寛一が、マキノの後援によって聯合映画芸術家協会を創立。『月形半平太』(1925年、衣笠貞之助監督、沢田正二郎主演)
第一作として、東亜キネマ撮影所を使用して上の月形半平太を製作、この作品をきっかけにマキノと東亜との仲が険悪化したそうです。以降、1926年までに計12作品を企画・製作しました。『戀と武士』(1925年、衣笠貞之助監督、坂東妻三郎主演)
6月マキノ省三が東亜から再度独立し、「マキノプロダクション」を設立、右京区花園天授ヶ丘に御室撮影所を建設。マキノプロが去った後の等持院撮影所は東亜キネマ京都撮影所となりました。嵐電の「御室仁和寺駅」
「御室撮影所」は御室仁和寺駅から仁和寺に向かう参道の右(東)にあり、マキノ・プロダクションの生産拠点となりました。予定地近くの平野小学校改築によって、旧校舎の古材を払い下げることができたため、短期間で撮影所が完成しました。
以来、同社の解散後も、大衆文芸映画社、正映マキノキネマ、宝塚キネマ興行、エトナ映画社、極東映画がそれぞれの撮影所として使用。下はマキノ・プロダクションの時の撮影所の平面図で、下が嵐電の線路、左が仁和寺への参道です。
1925年7月 阪東妻三郎がマキノプロを退社し、独立プロダクションを設立。『墓石が鼾(いびき)をする頃』(1925年、二川文太郎監督、坂東妻三郎主演)
『江戸怪賊伝 影法師』(1925年、二川文太郎監督、坂東妻三郎主演)
1926年3月脚本家山上伊太郎がマキノプロへ入社し、『闇の森』を製作、10月省三の長男、マキノ正博(正唯)が『青い眼の人形』で脚本・監督デビュー。以降、マキノ正博・山上伊太郎コンビが誕生しました。「何者?』(1925年、竜神虎彦監督、高木新平主演)
1928年3月マキノ省三の50歳を記念して『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を製作しましたが、北野の自宅で編集作業中に出火し、ネガの大半を焼失、自宅も全焼しました。北野天満宮の東を通る御前通に面して「上七軒歌舞練場」の門があります。
『忠魂義烈 実録忠臣蔵』は焼け残ったフィルムを編集して公開。急遽、併映作品としてマキノ正博監督で『間者』を製作しました。マキノの自宅で唯一残った蔵は現在「Project空Zero」として1階がカフェ、2階がギャラリースペースになっています。
4月マキノの四国配給を引き受けていた三共社社長の山崎徳次郎が「日本活動常設館館主連盟映画配給社」を創設、双ヶ丘撮影所に独立プロダクションを設立、片岡千恵蔵、嵐長寛寿郎などのスター50余人が大量に脱退、マキノに大打撃を与えました。
『浪人街 第一話 美しき獲物』(1928年10月、マキノ正博監督、山上伊太郎脚色、俳優は南光明、谷崎十郎、根岸東一郎)。こちらは国立映画アーカイブからの転載です。
スター不在のなか、『浪人街 第一話 美しき獲物』(マキノ正博監督、山上伊太郎脚本、下の写真)が製作され、1928年度キネマ旬報ベストテン1位となりました。しかし、病床についていた省三は回復せず7月に死去、享年50。
等持院撮影所は昭和8年(1933)まで存続しました。等持院の墓地にはマキノ省三の墓と像があり、その視線はかっての撮影所の方を見ています。最後の写真は等持院の南門、右に撮影所がありました。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
僕が子どもの頃、嵐 寛壽郎を嵐勘、
阪東妻三郎を阪妻と言ってましたね。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2026年9月 4日 (金) 00:48