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2026年9月 8日 (火)

日本映画の黎明期を巡る 尾上松之助

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は、このシリーズで何度も登場した日本映画の最初のスター・尾上松之助の足跡をたどります。「尾上松之助」(1875-1926)は、岡山市西中島町に生まれ、父・幾三郎は岡山池田藩の二十一俵三人扶持の下級武士でした。(写真は千本通)

明治維新後、父は遊廓地の西中島町で貸座敷業を営み、近くに旭座という芝居小屋がありました。そこで上方歌舞伎の大立者・二代目尾上多見蔵が一座をもち、父と懇意だった縁で5歳の時に『菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏みました。

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そうして子供芝居に出演するようになり高等科3年を修了後の14歳、反対する父を説得して旅役者として山陰巡業の旅に出ました。その後、父が死去して母が弟と妹を連れて巡業先に転がり込んできました。「千本座」、その跡地は上の「ハイツ千本一条」。

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明治37年(1904)大阪九條の繁栄座に出演、舞台を観ていた牧野省三に招かれて何度か牧野が経営していた千本座に出演、1909年には千本座の座付俳優として契約、座頭となりました。

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牧野は1908年から『本能寺合戦』など6本の活動写真を横田商会の依頼で撮りましたが、1本30円では儲けもないと、一旦製作を停止していた。そこへ松之助の起用が決まり、製作再開となりました。(本能寺合戦の撮影が行われた真如堂の記念碑)

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松之助の主演第1作の『碁盤忠信 源氏礎』は、1910年10月17日に千本座裏の大超寺境内で撮影され、午前8時から午後5時までに全2場を撮り上げ、この夜に同じ芝居を舞台で演じたそうです。(一条通から見た浄福寺)

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その後、大超寺は岩倉に移転しましたが、上と下の写真の浄福寺の西(左)隣にあったそうです。

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横田商会は1910年には二条城撮影所、1912年には法華堂(ほっけんどう)撮影所、1918年には日活大将軍撮影所を開設しました。1912年に横田商会は福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会とトラスト合併して日活になっています。スチール写真?

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その間、松之助は講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客を片っ端から演じ尽くしました。大石内蔵助(20回)、水戸黄門(13回)、大久保彦左衛門(10回)、荒木又右衛門、岩見重太郎(9回)、佐倉惣五郎(8回)、

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堀部安兵衛(7回)、三日月次郎吉(6回)、国定忠治、塚原卜伝、児雷也(5回)、後藤又兵衛、清水次郎長、一心太助、猿飛佐助、柳生十兵衛、幡随院長兵衛(4回)です。 (松之助と牧野が奉納した玉垣がある大将軍八神社)

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当時、松之助映画の封切館は浅草だけでも3館もあり、それらに10日間替りで別々の新作を提供するため、毎月9本、3日に1本の割合で作品を撮りました。1914年の夏に『橋場の長吉』を撮った時には、直射日光を浴びて卒倒し1時間も正気に戻らなかったそうです。

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やがて松之助と牧野との関係が悪化して、1921年牧野は日活を去り独立しました。同年、松之助は牧野の後任として日活大将軍撮影所長に、1923年には日活の取締役に就任しました。上は1910年頃、下は撮影所があった一条通と馬代通の交差点南東角。

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1921年、文部省主催の活動写真展覧会で『楠公訣別』の実演を行い、摂政宮殿下がご覧になりました。この様子を映した映像は35mmフィルムで現存し、2010年に重要文化財に指定されました。写真はその記録映像の一場面で、手前右が松之助、奥左が実川延一郎。

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1926年、尾上松之助は池田富保監督『侠骨三日月』の彦根ロケ中に倒れ、9月11日に堀川丸太町上ルの自宅で心臓病のため死去。葬儀は日活社葬として9月16日に行われました。『荒木又右衛門』(1925年、池田富保監督、尾上松之助主演)

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棺は自宅から千本座の前を通って葬儀会場の大将軍撮影所へ運び出されました。京都府知事をはじめ5万人が参列し、葬列の沿道で見送る市民は20万人にも及んだそうです。『実録忠臣蔵』(1926年4月、池田富保監督、尾上松之助主演)

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ところで、当時の忠臣蔵の討ち入の撮影は雪が降った天龍寺で行われたそうです。そのとき、日活では役者の集まりを良くするために「到着順に自分の好きな衣装を着ても良い」と懸賞をかけたそうです。(天龍寺の総門)

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義士の衣装は襟に名前が書いてあるので、役のいいものから取られていきましたが、幹部俳優も下っ端にいい役を持っていかれてなるものかと先を争ったそうです。

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でも大石内蔵助だけは松之助に決まっていたので、衣装方が冗談に「これどうや」と差し出しても「それ着たら首になりますヮ」と断ったといい、この習慣は大正末まで続いたそうです。

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松之助は真面目で几帳面な人でしたが、金銭に細かく「ケチ松」のあだ名があったそうです。晩年は、学校や福祉事業に巨額の寄付を投じ、京都府へ1万3千5百円、京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、 (千本通から大原に移転した出世稲荷神社)

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海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、二商プール建設費5千円を寄付、1924年これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章しました。(明治以後には千本通界隈が映画興行の街として繁栄し、映画俳優や監督らが鳥居を寄進しました。)

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上は牧野省三・尾上松之助等の寄進で向拝が新築された記念碑で、かっての社殿の前に建っていました。 下は素顔の松之助。

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鴨川デルタの北の葵公園に尾上松之助の胸像があります。松之助が京都府に寄付した資金で出世長屋と呼ばれる生活困窮者向けの府営住宅が建設されました。1966年に老朽化した住宅が処分され、その財源で建て直されました。

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取り潰しで松之助の功績が消滅するのを惜しんだ当時の蜷川虎三知事の発案で、財源の余りで胸像が建てられました。除幕式は2月の吹雪の中で行われたそうです。最後の写真は雪の日の葵公園。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
今日は四十七士の説明ですね。
勉強になります。 ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2026年9月 9日 (水) 00:59

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