« 堀川通を歩く 木津屋橋通から塩小路通 | トップページ | 高台寺 東山観月路 »

2026年8月 4日 (火)

三十三間堂の七不思議

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Ann_2553a
※写真は全てクリックで拡大します。

今日は三十三間堂の七不思議を紹介します。といっても、実際は三十三間堂の周辺の寺を含めての不思議です。

「三十三間堂」は正式には「蓮華王院」という天台宗妙法院門跡の場外仏堂です。蓮華王とは本尊の千手観世音菩薩を意味します。下は拝観入口のある「普門閣」。

Ann_2559a

この地は、平安時代中期の永延2年(988年)右大臣の藤原為光が邸宅「法住寺」を建てた場所です。平安時代末期の久寿2年(1155)、即位した後白河天皇は、翌年この地に御所「法住寺殿」を造営しました。「本堂」

Ann_2604a

後白河天皇はわずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として院政をおこないました。長寛2年(1164)後白河上皇の発願により、平清盛が御所の南殿の北西に鎮守寺の仏堂・蓮華王院を建造したのが三十三間堂の始まりです。「此附近法住寺殿址」

Ann_2602a

七不思議1「棟木の柳(むなぎのやなぎ)」 後白河法皇は頭痛持ちで、前世とされる熊野の修行僧・蓮華坊の髑髏が熊野の岩田川に沈み、それを貫いて柳が生えて風に揺られて当たることが頭痛の原因だという不思議な夢をみました。「北門」

Ann_2567a

そこで髑髏を観音像の頭に納めて祀ると頭痛が平癒し、棟木に柳が使われたとされています。この話は浄瑠璃などで世間に広まり、三十三間堂は頭痛封じの寺として頭痛山平癒寺と俗称されました。池泉回遊式の「東庭」

Ann_2633a

実際には柳は棟木には使われていないそうです。1月中旬に「楊枝(やなぎ)のお加持大法要」が行われ、観音様に祈願した法水を参拝者に注ぎ、頭痛封じと今年1年間の無病息災を祈ります。平安時代から続く伝統行事です。

Jmq_5673a

七不思議2「夜泣泉」 本堂創建の翌年6月7日、堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で、『古今著聞集』には「いつも冷たく美味く汲んでも尽きず、汲まぬ時は余らざる不思議な泉」と記されているそうです。

Ann_2625a

夜のしじまに湧き出す音がすすり泣きに似ることから夜泣泉といわれるようになり、いつからか地蔵尊が祀られました。その「前掛け」を持ちかえり子供の枕の下に敷けば夜泣きが治癒するとの信仰がうまれました。

Ann_2619a

七不思議3「法然塔」 元久元年(1204)土御門天皇が後白河法皇十三回忌を行った際、法然は天皇の特請によって声楽に秀でた僧侶を集めて六時礼賛という法要を行い、南無阿弥陀仏と書写して参集した人々に分け与えました。

Ann_2593a

その事跡を記念する鎌倉時代の塔には南無阿弥陀仏と彫られ、法然塔あるいは名号石とも呼ばれています。安土桃山時代、天下を統一した豊臣秀吉は、当時交通の要所だったこの地に目を向け、後白河法皇や清盛の栄華にあやかろうと思い立ちます。

Ann_2620a

七不思議4「太閤塀と南大門」 その権勢を天下に誇示するため、奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、三十三間堂や後白河法皇の御陵も境内に取り込んで土塀を築きました。軒平瓦には太閤桐の文様が用いられています。

Ann_2655a

「南大門」(重文)、本瓦葺の巨大な八脚門で、慶長5年(1600)豊臣秀頼によって建立されました。秀吉が建立した方広寺(大仏殿)の南門でしたが、現在は三十三間堂の門になっています。向うは塩小路通です。

Ann_2826a

七不思議5「通し矢」 平安時代から行われたとされ、いくつか種類があります。射通した矢の数を競う「大矢数」が有名で、安土桃山時代から流行し、特に江戸時代には様々な記録が打ち立てられました。

Ajnr_1691a

通し矢の名称は長さ約120メートルの三十三間堂の軒下を通すことに由来しています。現在の通し矢の正式名称は「京都三十三間堂大的全国大会」で、成人を迎えた男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。

Jmq_5291a

七不思議6「親鸞そば喰木像」 浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、延暦寺での修業に飽き足らず、毎夜六角堂まで100日間参籠をしました。しかし、親鸞が女に会いに毎夜山を下りていると噂がたちました。三十三間堂の東の「法住寺」

Ann_2820a

そこで、天台座主・慈円が蕎麦を振舞うということで弟子たちを集め、名前を順に呼ぶと親鸞の返事もありました。あとで、親鸞が自ら刻んだともいわれる木像を見ると、口の周りに蕎麦がついていて親鸞の身代わりに蕎麦を食べたといわれています。

Ag260804g

七不思議7「四十七士木像」 赤穂事件の後、山科に隠棲した大石内蔵助は島原などの花街の行き帰りに法住寺に立ち寄り、本尊・身代わり不動明王に仇討ちを祈願したといわれています。法住寺では12月14日には義士会法要が行われます。

Ag260804f

法住寺の南隣の「養源院」は、豊臣秀吉の側室・淀殿が父浅井長政の追善のため文禄3年(1594)成伯法師(長政の従弟)を開山として建立しました。本堂は伏見城の建物が移されました。

Ann_2732a

七不思議8「血天井」 関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いの際、8月1日に石田三成の4万の大軍に攻められた、徳川家の家臣・鳥居元忠ら380余名が切腹し、遺体が9月中旬まで放置されました。その床板を天井に張ったのが血天井です。

Ag260804a

七不思議9「楊梅(やまもも)」 巨木は樹齢400年で京都市指定保存樹です。伏見桃山城から移植された、あるいは秀吉が手植えしたものといいます。ご神木になっているようです。

Ann_2785a

七不思議10「三方正面八方にらみの獅子」 絵師・俵屋宗達が描いた杉戸絵(重文)。獅子はどこから見ても正面を向いているように見えることからこの名があります。伏見城で切腹した鳥居元忠らを供養する為に描かれたと言われています。

Ag260804e

「妙法院」 山号を南叡山という天台宗の寺院で、徳川幕府の庇護をうけ幕末まで代々法親王が住持となり、青蓮院・三千院と並ぶ天台三門跡の一つです。東山七条にあり三十三間堂を管理する寺院で、下は東大路通に面する表門です。

Ann_1974a

七不思議11「大庫裏」(国宝) 文禄4年(1595)豊臣秀吉が先祖の菩提を弔うために千僧供養を行った際、その饗厨房として建立したといわれます。桁行約21.8m、梁間約23.7m、高さ約18mで、庫裏としては日本最大級です。

Ag260804c

庫裏は本来台所で、屋根には煙出があります。現在修復工事中で、写真は工事を主導する京都府教育委員会文化財保護課のHPから。最後の写真は法住寺の大根炊きです。

Ag260804d

励みにしていますので、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jmq_5696a

|

« 堀川通を歩く 木津屋橋通から塩小路通 | トップページ | 高台寺 東山観月路 »

コメント

こんばんは。ゆーしょー。
三十三間堂の通し矢といえば
和佐大八郎が忘れられませんね。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2026年8月 5日 (水) 00:16

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 堀川通を歩く 木津屋橋通から塩小路通 | トップページ | 高台寺 東山観月路 »