日本映画の黎明期を巡る 法華堂十如寺
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一昨日の記事の二条城撮影所は間もなく手狭となり、一年ばかりで閉鎖。明治45年(1912)1月には、通称「横田商会法華堂(ほっけんどう)撮影所」が建設されます。場所は北野天満宮の南、御前通一条下るにある十如寺(じゅうにょじ)の北側です。
下のGoogleMapで中央が十如寺。その右(東)が御前通で北野天満宮の東を通ります。左は天神通、上は一条通(妖怪ストリート)、下は仁和寺街道です。
十如寺は鎌倉時代の正和2年(1313)に日像上人が建立した法華堂が起源で、室町時代の寛正5年(1466)日春により現在の寺号に改称。日像が北野天満宮の参拝者を集めこの地で法華経の教え「十如」を説いたのが寺号の由来です(御前通の南から)。
以下の記事は京都市メディア支援センターの「京都の映画文化と歴史」を参考に、映画と撮影所の写真はニッポン シネマレトロ キョウトの「撮影所アーカイブ」からの転載です。下は十如寺の境内。
ここでは牧野省三が尾上松之助と組んで数多くの映画を作りましたが、現在撮影所の痕跡は何も残っていません。下は撮影所アーカイブに載っていた撮影所跡の写真で、現在は寺の石碑があるだけだそうです。
Googleのストリートビューで上の石碑を探すと、御前通ではなく一筋西の天神通からの写真でした。下は天神通の南からの写真で、向うの赤い自販機があるところに脇道があります。
法華堂撮影所の開設当時は一条通、天神通、御前通があるのみで、現在の様に入り組んだ小路も無かったそうです。左の石柱は妙見大菩薩常夜燈、右の石柱の裏には法華堂十如寺と刻まれています。
また、一面は大根畑で、いくつかの寺社があるも民家は一軒もなかったといわれています。下は「近代京都オーバーレイマップ」の同じ場所の明治25年の地図で、十如寺の周囲にはいくつかの寺がありますが、確かに他は田畑になっています。
下は大正11年(1922)の地図で、既に市街地化がはじまり、長屋のような建物が並んでいます。
この横田商会の撮影所は、牧野省三の発案で採光のために片屋根をガラス張りにしたグラス・ステージ1棟、現像所、俳優部屋、事務所が設けられ、機材も最新のものが揃えられました。
主に牧野省三監督、尾上松之助主演映画が撮影され、閉鎖までの6年間に400本以上撮影、ピーク時には3日に1本のペースで製作されたそうです。 『鼠小僧治郎吉』(1914年、牧野省三監督、尾上松之助主演)
明治天皇が崩御した1912年には、当時の四大映画会社であった東京の吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会、そして京都の横田商会が合併し、日活(大日本活動写真株式会社)が誕生しました。『怪鼡傳』(1915年、牧野省三監督、尾上松之助主演)
法華堂撮影所は日活に引き継がれ、日活関西撮影所と名を改めました。1913年には日活向島撮影所(東京)が建設され、東京では現代劇、京都では時代劇の撮影という形が定着しました。
1914年10月には日活向島映画『カチューシャ』が大ヒットしました(上の写真)。日活新派とよばれ、当時は女役も男が演じ、カチューシャは女形の立花貞二郎でした。実は、同年の3月に島村抱月、松井須磨子(下の写真)による新劇の劇団芸術座で、
レフ・トルストイの小説『復活』を題材に取り上げてたいへんなヒットとなりました。カチューシャは島村抱月による演劇を同撮影所の脚本家・桝本清が脚色、細山喜代松が監督したものです。下は当時の日活京都のオープニングロゴです。
ところで、十如寺の北隣に「法華寺」があり、正和2年(1313)に日像上人と出会った嵯峨大覚寺の門跡・妙實上人が建立した法華堂が始まりとしています。上述の天神通に面する二つの石碑の左は法華寺の妙見堂のことで、こちらも撮影所ゆかりの場所です。
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投稿: ゆーしょー | 2026年8月30日 (日) 00:17