祇園祭2026 前祭山鉾巡行と神幸祭の見どころ
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今日は祇園祭の前祭山鉾巡行と神幸祭が行われます。最初に山鉾巡行を今年のくじ取りの順番に紹介します。午前9時に四条堺町を出発した行列が、写真を撮った河原町御池に到着するのは10時過ぎです。
「長刀鉾」 「くじとらず」として毎年巡行の先頭にたち、人形ではなく生稚児が乗るのも今ではこの鉾だけです。鉾先きの長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もとは三条小鍛冶宗近作、現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀の複製品を鉾頭としています。
「郭巨山(かっきょやま)」 中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなみ、「釜掘り山」ともいわれます。ご神体の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作。山一番です。
「占出山(うらでやま)」 「鮎釣山」ともいい、神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って三韓征伐の戦勝の兆としたという説話によります。ご神体は金の烏帽子に太刀をつけ、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持っています。
「山伏山」 山伏姿のご神体が乗り、左手に刺高数珠、右手には斧を持ち腰には法螺貝をつけています。昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしています。
「函谷鉾(かんこほこ)」 中国戦国時代(BC403-221)斉の孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事にちなんで名付けられました。天保10年(1839)の再興以後は「嘉多丸」という稚児人形が乗っています。(くじ取らず)
「油天神山」 古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山で、油小路にあるところからこの名となりました。また勧請の日が丑の日にあたっていたので「牛天神山」とも呼ばれます。
「綾傘鉾」 山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行してきました。棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されてきました。
「太子山」 聖徳太子が四天王寺建立にあたり、自ら山中に入って良材を求めたという伝説にもとづき、この山だけは真木に杉を立て、その樹に小さな如意輪観音像を祀っています。太子は少年像で右手に斧、左手に衵扇を持ちます。
「月鉾」 鉾頭の新月型(みかづき)からこの名で呼ばれ、真木のなかほどの「天王座」には夜の神・月読尊(つきよみのみこと)を祀ります。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙の筆。
「蟷螂(とうろう)山」 カマキリが前脚をあげて大きな車に向かうという中国の故事があります。南北朝時代、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292-1352)の「蟷螂の斧」のような戦いぶりにちなんでいます。唯一のからくりです。
「孟宗山」 「筍山」ともいい、ご神体は中国の史話二十四孝から取材。病身の母を養う孟宗が、雪の中で筍を掘りあてた姿をあらわしています。胴懸は平山郁夫筆の「砂漠らくだ行(日)」と「砂漠らくだ行(月)」です。
「保昌山」 丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語が題材で、保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折っている姿をあらわしています。
「鶏鉾」 中国の堯、舜、禹が、その施政について諫言しようとする人民に打鳴らさせるために、朝廷の門外に設けたとされる鼓・諫鼓(かんこ)が用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事を表しています。ここから「閑古鳥が鳴く」 という言葉が生まれました。
「木賊(とくさ)山」 謡曲「木賊」から、我が子を人にさらわれて一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁は、腰に蓑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持っています。水引は日輪鳳凰文様の綴錦及び道釈人物刺繍、前懸は唐人交易図刺繍。
「四条傘鉾」 織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態の傘鉾の一つです。踊りとはやしは、室町時代に京都から広まった風流踊で、赤熊を被った棒振りと花笠を被った鉦、太鼓、ササラの各2人づつの計8人の小学生です。
「霰(あられ)天神山」 戦国時代・永正年間(1504-1520)の大火のとき、霰が降り猛火はたちまちに消え、そのとき一寸二分の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりといわれます。
「菊水鉾」 町内に古くからあった井戸・菊水井にちなんで名付けられ、元治元年(1864)の兵火で焼失、昭和27年、88年ぶりに松本元治氏の熱意が実り再興されました。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童で能装束の舞姿です。
「伯牙(はくが)山」 「琴破山」ともいわ、中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鍾子期との物語に取材、伯牙が鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断ったという故事をあらわしています。人形は手に斧を持ち前に琴が置かれています。
「白楽天山」 唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面です。道林禅師は緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持ち松の枝の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っています。
「芦刈(あしかり)山」 謡曲「芦刈」から、故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻との再会をはたす夫婦和合の姿をあらわしています。ご神体の小袖は信長から拝領したと伝えられ重要文化財(巡行は複製)。
「放下鉾」 鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来します。かつては長刀鉾と同様「生稚児」でしたが昭和4年以降稚児人形にかえられました。稚児と同様、鉾の上で稚児舞ができるように作られています。(以下はくじとらず)
「岩戸山」 天岩戸を開いて天照大神が出現する日本神話から取材。鉾と同じ車をつけた曳山です。屋根の上には太刀をさし天瓊矛(あまのぬほこ)をつき出した伊弉諾尊、中には胸に鏡をかけた天照大神と、脇に唐冠をかむった手力雄尊が祀られています。
「船鉾」 神功皇后の三韓征伐の説話によって鉾全体が船の型になっています。鉾の上には皇后と陪従して皇后を守る磯良・住吉・鹿島の三神像を安置しています。舳先は中国の伝説の鳥・鷁(げき)です。
本日(7月17日)の夕方、八坂神社の神幸祭が行われます。神幸祭と24日の還幸祭の神輿渡御の道筋を祓い清めるのが前祭と後祭の山鉾巡行です。八坂神社から出発する3基の神輿は、祇園石段下で壮大な差し回し、差し上げが行われます。
祇園祭は、災害や疫病が続いた貞観11年(869)、ト部日良麿(うらべのひらまろ)が当時の国の数の66本の矛を神泉苑に立て、それらの災厄をもたらす牛頭天王を鎮め、災厄や疫病の退散を祈った「祇園御霊会」が始まりです。
天延2年(974)、第64代円融天皇は高辻東洞院に大政所御旅所を賜り、この地に毎年神幸せよとの勅令を出しました。八坂神社の神幸祭・還幸祭は国家が命じた行事で、3基の神輿はいずれも大政所御旅所を通りこの勅令はいまだに守られています。
以後、祇園御霊会は毎年の恒例となりましたが、天延2年(974)都で天然痘が大流行しました。円融天皇は今までの御霊会では不十分と考えて、御旅所との往復だけでなく、人々が住む地域を祭神が神幸するように命じました。
神輿渡御に先立って、その道筋を祓い清めるために町民によって始められたのが山鉾巡行です。そして、鉾町の商人たちの財力が増すととともに、互いに競うように山鉾は豪華になっていきました。(四条通を先回りして神輿渡御の列を待ちます。)
中御座神輿には八坂神社の主祭神・素戔嗚尊、東御座神輿には素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命、西御座神輿には素戔嗚尊の8人の子・八柱御子神の神霊がのり、東西は東大路通と寺町通、南北は松原通と二条通で囲まれた地域を渡御します。
午後9時頃、3基の神輿はそれぞれのコースを回って、四条御旅所に戻ってきます。いつもは京都土産センターに貸し出していますが、年に1週間、24日の還幸祭まで神輿と祭神が滞在します。最後の写真は前祭山鉾巡行のしんがり・船鉾の辻回しです。
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コメント
こんばんは。
いよいよ祇園祭りですね。
すごい人ですね。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2026年7月18日 (土) 00:34