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2026年7月10日 (金)

谷ヶ堂最福寺と延朗上人

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

松尾大社・月読神社から山沿いの道を南に行くと「谷ヶ堂最福寺 開山延朗上人旧跡地」という石標が立っています。ここは歴史上重要な場所で、多くの石標や石塔が立っていて、向うにお堂があります。

奈良時代末期この地に「松尾山寺」がありましたが、平安時代の平治元年(1159)の「平治の乱」により焼失しました。

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後白河上皇の近臣らを巻き込んだ戦いで平清盛が源義朝に勝利、義朝の幼い子供の頼朝が助命されたことで知られます。下の石碑は「松尾より京へ二里」。*以下では、この場所にある石碑や建物が歴史の流れに沿って登場しますので、あしからず。

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お堂の横の石碑の前に「松尾山寺、尊鏡大法師像安置」とあります。『続日本紀』の延暦元年(782)の項に「松尾山寺尊鏡 生年百一歳 詣入内裏 叙位大法師 優高年也」とあり、奈良時代末期に101歳で大法師となったと記されている長寿の僧です。

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松尾山麓の神宮寺に住していた延朗(えんろう)は、平安時代後期の安元2年(1176)この地に天台宗寺門派の最福寺を建立しました。七堂伽藍と49院の塔頭が建ち並び、塔は五重塔だったといわれます。「開祖延朗上人谷ヶ堂最福寺旧蹟地」の碑

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延朗(1130-1208)は、但馬に生まれ幼くして父母を喪い15歳で出家しました。伝承では八幡太郎源義家4世の孫ともいわれます。平治の乱では源氏のため平清盛に追われて、陸奥松島に逃れました。(写真はお堂の前です。)

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上の写真の石碑には「延朗上人八百年大遠忌記念」とあり、その記念として下の「さしのべ観音」が建立されました。お堂の前の脇道の周辺は最福寺の旧境内地だと思われます。

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義経が丹波国亀岡篠村を寺領として最福寺へ寄進した際には、延朗は村人に免租や富民の善政を施し、悪病難病の治療のために寺に浴室を造り、自ら病人を治療したといいます。奥の石碑は「ひたすらに おすがり申す 延朗さん」。

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延朗は、多くの民衆の救済に献身したので、人々は「松尾の上人」と呼び尊敬を集めたとわれます。最福寺は、西芳寺川の谷口の谷郷(たにごう)に位置していたことから、「谷堂」ともよばれました。

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鎌倉時代になり、延朗の没後も伽藍は次第に整備され、源頼朝(1147-1199)も寺領を寄進したといわれます。下は、大遠忌記念の「六地蔵」。

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鎌倉時代前期の1219-1222年、延朗の弟子・慶政は、最福寺の南隣の丘陵に「法華山寺」を建立し、「峰堂」とも呼ばれました。 関白・九条道家は寺領を寄進して大伽藍となり、最福寺と法華山寺は、西山屈指の大寺になりました。「仏足石」

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鎌倉時代末に後醍醐天皇の勢力を中心とした鎌倉幕府討幕の「元弘の乱」(1331-1333)が起こります。 お堂の前の脇道の左手の斜面に小路があり、様々な植物が植えられています。

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『太平記』によると、隠岐を脱した後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕が、聖護院静尊法親王を立て、西山峰堂に入り布陣しました。

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20万騎の軍勢が峰堂周辺に陣取り、忠顕は幕府方の六波羅を攻めるも敗退、幕府方の反撃により峰堂の本陣を捨て丹波に逃れました。その際、谷堂と峰堂は火を放たれ破却されました。

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その後しばらくして、二つの寺は再建されたといわれます。斜面の小道から下の脇道に戻ると、小さな祠があります。

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南北朝時代になると、「明徳の乱」(1391年)など数度、この地に双方の軍勢が集結して戦いが起こりました。脇道の奥にも紫陽花が咲いていました。

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そして、「応仁の乱」(1467-1477)では、東軍・山名右馬助らが最福寺に布陣しましたが、西軍・畠山義就に攻められ、最福寺は法華山寺とともに焼失しました。戦国時代末の元亀2年(1571)織田信長が比叡山を焼討した「元亀の乱」でも両寺は焼失しました。

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その後両寺は再興されることはなく、現在に至ります。脇道の奥には、最福寺の遺物と思われる瓦や石材が残されています(上の写真)。 最初の石碑が並んでいる場所に「平治 元弘 応仁 元亀の乱 戦火ゆかりの地」があります。

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横に新しい供養塔「鸚鵡塔(おうむとう)」が建てられていました。この形の宝塔を鸚鵡宝塔(鸚鵡塔)といい、多くの人々を供養する場合が多いようです。

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右の石標には「延朗上人によって建立された谷堂最福寺があった地域であるが、幾度とない戦乱に遭い焼失してしまった。地域の無縁墓供養、度重なる戦乱の供養の為、某氏の寄進により建立」と説明があります。石塔も集められていました。

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現在では、脇道の上り口に谷ヶ堂(延朗堂)の一堂だけが残され、開山の「延朗上人坐像」が安置されています。近くにある西光寺が管理しているそうです。

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旧最福寺本尊の「阿弥陀像」は嵯峨・正定院に遷されました。車折神社の近くにある浄土宗の寺です。谷ヶ堂は洛西観音霊場番外札所で御朱印(押印、揮毫、祈願済)があります。

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毎月12日の延朗上人の月命日の午後1時から谷ヶ堂が開帳され、延朗上人坐像を拝むことができます。また、月末には写経会、写仏会が催されます。毎年2月11日の夕方、「延朗上人、さしのべ観音 竹とうろう祭」が行われ、

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上人の供養の後、願い事を書いた六百本以上の青竹燈篭が並び、さしのべ観音のライトアップ、演奏会や甘酒の接待があります。 翌日の命日には青竹燈篭の焚き上げ供養があります。延朗上人は今なお地域の人々に敬愛されています。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
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投稿: ゆーしょー | 2026年7月11日 (土) 00:15

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