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2026年6月 7日 (日)

圓光寺 緑の庭園から境内山上へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日に続いて一乗寺の圓光寺の境内をめぐります。この日の目的は境内の斜面の上にある東照宮と見晴らし台、オマールさんの墓を訪れることです。マレーシアからの留学生のオマールさんのことを知ったのはきっかけがあります。

朝のワイドショーを見ていると、近くの山本石材店「石俊」(葉山馬頭観音の前)を訪れて職人さん(3代目)の話を聞いていました。

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そのとき、初代(祖父)が偉大であったという話が出て、マレーシアのマハティール首相(1991年当時)が突然石材店を訪れてきたそうです。そのとき、大きな外車が何台もやってきて、3代目はてっきり怖い人たちだと思ったそうです。

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庭の奥にある池は瓢箪形をしていて「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれます。この周囲の「昇龍の庭」は洛北で最も古い泉水だそうです。こちらは池の南から。

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70年前に日本に来たマレーシアの王族が戦火に巻き込まれて京都で亡くなり、初代がそのお墓を作ったことを聞いて、感謝の意を伝えに来たそうです。少し高いところに「鐘楼」があり、その奥に蟠龍窟(ばんりゅうくつ) という建物があります。

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「蟠龍窟」は坐禅堂で、毎週日曜日6:00~8:00に「日曜早朝坐禅会」が開かれます。内容は、暁天坐禅、作務、法話、粥坐(朝食)だそうです。修学旅行や団体での坐禅体験も行われます。

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その留学生は、サイド・オマールさんです。マレーシア・ジョホール州の出身で祖父はジョホール州の首相をつとめ、その一族は政治・経済・教育の分野で名をなしていました。 いねむり小坊主の像、ときどき寺院の境内で見かけます。

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昭和18年(1943)、当時の東條英機内閣の要請で南方特別留学生の一人としてサイド・オマールさんは来日して広島大学に留学しました。在学中の昭和20年8月6日、原子爆弾に被爆してしまいます。蟠龍窟の軒下(犬走り)

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彼自身も重傷だったにも関わらず、重い被爆者の救護にあたりました。終戦後の8月下旬に米軍司令部の命令で帰国のためにオマールさんは東京に向かいます。

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上の石段を上ると墓地があり、正面に最近できたペットの供養碑があります。

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京都まで来たところで病症が悪化して京大病院に運ばれますが、既に末期症状で9月3日に亡くなりました。彼を知る人によると、優秀で心が優しい美青年だったそうです。サイド・オマールさんの墓

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そして、当時の市営墓地であった南禅寺・大日山に埋葬されました。昭和35年(1960)になってこのことが週刊誌に掲載され、事情を知った八瀬平八茶屋のご主人らが墓の建立を計画して、

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遺族の許可を得て、翌年9月3日にイスラム教式の墓碑を圓光寺に建立したのです。毎年9月の第1日曜日には供養が行われているそうです。墓の左の金属製の碑は広島大学が建てたものです。下は武者小路実篤氏の追悼文。

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この墓地の奥に、金福寺の記事で紹介した村山たか女の墓もあります。

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オマールさんのことは、近隣諸国との友好や戦争の怖さ、平和の大切さを教えてくれる気がします。さらに高台に上ります。

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石段を上ったところに徳川家康の墓があり、歯が埋葬されています。

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最近再興された「東照宮」、徳川家康(東照大権現)が祀られています。江戸時代の『遺拾都名所図會』にはここに白木造りの荘厳な東照宮があり、名跡として「雨月物語」の作者上田秋成もお参りしたといわれます。

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斜面を西に回り込むと見晴らし台になっています。市内北部が見渡せ、愛宕山、左大文字、船形、仁和寺の五重塔まで見えます。

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墓地から下りる道の上に歌碑があります。「坂道を のぼり来りて 月読みの 光あまねき 打たれ佇つかも」、作者の国崎望久太郎(1910-1989)は歌人で国文学者、立命館大学の教授や図書館長などを務めました

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帰りは竹林の道を通ります。 ここは、十牛の庭の奥の孟宗竹林で、かって円山応挙がよく訪れて「応挙竹林」と名付けられています。

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このあと、宝物館の「瑞雲閣」に入りました。昨日の木活字(重文)以外に、家康から拝領した文具、江戸時代から明治にかけての絵画や墨蹟など多数が展示されています。そのうちの一つに円山応挙(1733-95)の『風竹図屏風』があります。

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応挙は亀岡市の農家に生まれ、狩野派の石田幽汀の門で絵を学び始め、当初は眼鏡絵を描き、後に洛中(京都)で写生画を描きました。門人千を数えたといわれ、中でも呉春は円山四条派を形成して、竹内栖鳳などを輩出しました。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
みどりがとてもきれいですね。
今日の応援です。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2026年6月 8日 (月) 01:02

★ゆーしょーさん こんばんは♪
お返事が滞りすみませんでした。いつも応援ありがとうございます。

投稿: りせ | 2026年6月 8日 (月) 01:07

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