金福寺 芭蕉・蕪村と村山たか
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一昨日、再び一乗寺に行って前回訪れていないお寺を訪れました。最初は一乗寺下り松の近くにある金福寺です。「金福寺(こんぷくじ)」は山号を佛日山という臨済宗南禅寺派の寺院で、石段の上に山門があります。
平安時代の貞観6年(864)円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵(あんね)僧都が創建したとされ、当初は天台宗の寺でした。「芭蕉庵」の扁額が架けられた中門をくぐると左に本堂の「残照亭」があります。
鎌倉時代から室町時代にかけて荒廃しましたが、江戸時代前期に圓光寺の鉄舟和尚により再興され、以後臨済宗南禅寺派に属しました。その際、金福寺は圓光寺の末寺になりました。(本堂から)
鉄舟は松尾芭蕉と親交があり、貞亨年間(1684-1688)芭蕉が京都を訪れたとき金福寺にも宿泊しました。床の間の「蕪村筆 芭蕉翁像」、当寺のために蕪村が安永8年(1779)に描いたもので、芭蕉の肖像画として最も優れているといわれています。
芭蕉が泊まり、鉄舟と風雅を語り合った建物は「芭蕉庵」と呼ばれましたが、後に荒廃。江戸時代中期の安永5年(1776)、俳人・画家の与謝蕪村は住持・松宗(しょうそう)の了承を得て、荒廃していた芭蕉庵を再建しました。
「松尾芭蕉」(1644-1694)は、江戸時代前期の俳諧師で伊賀国上野の生まれ。京都の北村季吟に学んで俳号を宗房、後に芭蕉と名のりました。芭蕉はそれまで滑稽や洒落を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立しました。
元禄2年(1689)弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った紀行文『おくのほそ道』が特に有名です。元禄4年にも京都を訪れ、金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨の落柿舎、円山の芭蕉堂などを訪れました。
「与謝蕪村」(1716-1784)は摂津国に生まれ、元文2年(1737)に江戸に出て早野巴人(はじん)に師事し俳諧を学びました。寛保2年(1742)には憧れの松尾芭蕉の足跡をたどって、関東から東北地方を周りました。「芭蕉庵」
宝暦4年(1754)には丹後与謝、讃岐などを旅して、宝暦7年頃に京都の四条烏丸付近に住んで与謝を名乗りました。蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれ、早野巴人が名乗っていた夜半亭を継ぎました。
芭蕉庵ではしばしば句会を催しました。蕪村がここで詠んだ句「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の聲」、「畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ」。芭蕉庵は茅葺き屋根、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっています。
蕪村は「奥の細道屏風図」や池野大雅との合作「十便十宜帳」を描き、江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者といわれています 。(芭蕉庵からは市内北部から愛宕山まで見えます。)
芭蕉庵の横にある「芭蕉水」、鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸です。山の斜面ですが今でも水が湧いていました。
井戸の横に「芭蕉の碑」があります。安永5年(1776)に蕪村や俳人・樋口道立(どうりゅう)が建て、芭蕉を讃えた文が刻んであります。蕪村は碑の建立時に「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」と詠み遺言としました。
芭蕉の碑の前に、芭蕉がここで詠んだ句碑があります。「うき我を淋しがらせよかんこどり」、「うき我」とはふさぎ込んでいる自分という意味だそうです。
蕪村は仏光寺通の自宅で亡くなり、遺言に従って弟子たちは斜面を上ったところに蕪村の墓を造りました。途中に見晴らしのよい場所があります。昭和10年(1935)高浜虚子は蕪村の墓を訪ね、ここで詠んだ句が 「徂(ゆ)く春や京をひと目の墓どころ」。
芭蕉庵の裏に蕪村が当季に詠んだ句が書いてありました。「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」、「菜の花や月は東に日は西に」、「うぐいすの枝ふみはづす初音(はつね)哉」。
左は蕪村の墓で辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」。右は門下・江森月居で代表句は「朝霧にまぎれて出む君が門」、「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」。周囲には他の門下や京都の俳人の墓や句碑があります。
蕪村の墓への坂道の途中に、村山たかの参り墓があります。「村山たか」は、文化6年(1809)近江国にある寺の娘として生まれましたが、18歳の時に当時の藩主・井伊直亮の侍女となり、20歳になり京都に上って祇園で芸妓となりました。
男子が生まれたのを機に、生まれ故郷の彦根に戻りました。そして彦根城下で部屋住みの井伊直弼(なおすけ)と出会い愛人関係となり、その数年後に直弼を通じて出会った国学者の長野主膳(しゅぜん)とも深い関係になりました。
やがて直弼は大老となり江戸に移り、安政の大獄(1858年)で尊攘派を弾圧します。一方、京都に上って九条家に仕えていた長野は直弼の懐刀として恐れられ「京都大老」と呼ばれました。本堂に戻ってきました。
たかは京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、二人に協力しました。ところが、直弼は安政7年(1860)の桜田門外の変で暗殺され、文久2年(1862)長野は彦根藩に処刑されました。
同年、長州と土佐藩士は報復のためにたかを捕らえ、三条大橋に尼姿で晒しました。3日後たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、金福寺の尼となりました。たかは、晩年の14年間を金福寺で直弼と長野の菩提を弔いながら過ごしました。
平成23年(2011)東山区の井伊美術館で、直弼がたかへと宛てた手紙が発見されました。手紙は直弼が藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られているそうです。山門の脇に慶応3年(1867)にたかが建てた弁天堂があります。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
芭蕉の掛け軸見事ですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2026年6月 3日 (水) 00:18