« 神泉苑 朝廷の苑池と祇園祭 | トップページ | 大宮通を歩く 押小路通から姉小路通 »

2026年6月 4日 (木)

本願寺北山別院 親鸞と与謝野礼厳

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Anp_5348a
※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の金福寺の北に本願寺の北山別院があります。上の写真の石碑には「親鸞聖人御舊跡」とあります。「本願寺北山別院」は、山号を聖水山、寺号を養源寺という浄土宗西本願寺派の本山直属の寺院です。

この寺は、かつては「養源庵」という天台宗・比叡山延暦寺の末寺でした。「唐門」

Anp_5351a

親鸞(1173-1263)は藤原北家の流れをくむ日野有範と源氏の出身の母の間に長男として、日野(伏見区)に生まれました。幼くして両親を失い、8歳のとき叔父・日野範綱に引き取られ、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度して、範宴(はんねん)と称しました。

Anp_5356a

その後、養源庵で1年余り修業をしたのち比叡山に登り、横川首楞厳院の堂僧として20年近く修行を続けました。(境内には浄土真宗系の「聖水保育園」があります。)

Anp_5357a

堂僧とは、常行堂で「不断念仏」をつとめる僧侶です。不断念仏というのは、ひたすら阿弥陀如来を称え、阿弥陀如来を念じ続けることで、阿弥陀如来の姿を見る「見仏」の境地に達することを目的とする修行です。「本堂」

Anp_5353a

親鸞聖人は修行に打ち込みましたが、修行に励めば励むほど、末法の世では自力で人々を救うことができないという悩みが増しました。 29歳の時、親鸞は比叡から六角堂の救世観音に百日間参籠し、師・源空(法然)の導きにより浄土教に帰依しました。

Anp_5359a

親鸞35歳のとき、建永2年(1207)の「承元の法難」による専修念仏停止(ちょうじ)によって越後に流罪になりました。その後建暦元年(1211)に赦免され、3年後に42歳で妻子らとともに関東で布教を行いました。

Anp_5360a

元仁元年(1224)に浄土真宗の教義が体系化された『教行信証』を著し、親鸞はその宗祖となりました。その後、寺は江戸時代の延宝5年(1677)、一乗寺村の信徒の請願によって浄土真宗の寺として再興されて養源寺と名を改めました。

Anp_5365a

上は「大正天皇お手植えの松」。さらに、延宝8年(1680)には養源寺は西本願寺の別院となり現在に至ります。本堂の左の細い道を行くと、親鸞の旧跡があります。

Anp_5370a

親鸞が六角堂に参籠したとき、比叡山から、雲母(きらら)坂、一乗寺、北白川、出町、河原町通を通って六角堂に向かいました。往きはここで身を清め、帰りは休憩して草鞋の紐を締めなおして急な雲母坂に向かったといわれています。

Anp_5377a

その参籠で立ち寄り身を清めた井戸水が「御聖水」として今なお湧いています(下の写真)。

Anp_5378a

隣に「上宮太子影向(ようこう)石」があります。上宮太子は聖徳太子の別名で、影向石は神が降臨する(腰掛ける)石だそうです。聖徳太子は日本仏教の始祖といわれ、親鸞は「和国の教主」として崇めていたといわれます。

Anp_5380a

六角堂の山門を入った右手の石段上に「親鸞堂」があります。下の写真の右は「夢窓之像」、こうべを垂れて夢のお告げを聞く親鸞を表し、左の「草鞋の御影」は六角堂参籠の姿を親鸞が自刻したといわれています。

Anc_9867a

親鸞 (範宴 )は、毎夜山を下って六角堂へお参りし、明け方になって戻ってくることを続けました。暗くなると密に下山する範宴を見て、他の弟子の僧たちは都にいる女の所へ通っているに違いないと噂しあいました。

Anp_5384a

その噂を聞いた師の慈鎮和尚は、突然門下の弟子を呼び集めて一人一人の名前を呼び上げました。「範宴」と呼ぶと、ハイと返事がありました。和尚は安心して一同にそばを振舞ったといわれます。 延暦寺の「常行堂」。

Anb_7987a

翌朝、そんなことを知らない範宴が山に戻ってくると弟子たちは驚きました。弟子の一人が範宴が彫った坐像の口にそばがついているのを発見しました。範宴として返事をしてそばを食べたのはこの木像だったといわれています。

Ag260604a

この像が三十三間堂前の「法住寺」に親鸞の「そば喰い木像」として伝わっています。明治17年(1884)、歌人でもある僧・与謝野礼厳(れいごん、1823-1898)が養源寺に留守居(留守番)として入りました。「聖水保育園」

Anp_5387a

礼厳は、丹後与謝郡温江村(現与謝野町温江)の細見儀右衛門の二男として生まれ、幕末には勤王活動に奔走し、明治維新後は小学校や療病院設立など社会福祉事業に携わりました。

Anj_5345a

歌集に『礼厳法師歌集』があり、これは礼厳没後の13回忌に4男の歌人・与謝野鉄幹が編纂したものです。唐門の横に「鐘楼」があります。

Anp_5354a

この梵鐘は、室町時代の1544年中国(明時代)で製造されたと伝えられ、明治35年(1902)に大阪御花講により寄進されました。「春のまどろみを起こす」音色だそうです。

Anp_5390a

礼厳は3万首もの和歌を残していました。鉄幹は晩年の「世を恨み、己の老いを嘆く」歌に心を打たれ、その時期を中心に壮年期の歌を織り交ぜた630首を選びました。礼厳は後に清水寺近くの清閑寺に移りますが、この別院にいた時代の歌も多くあります。

Anp_5391a

この地で詠んだ歌を2首。比叡の麓一乗寺の里に世を避けて、「野の末にうき世は遠く避けたれど月ばかりこそ疎まざりけれ」、「比叡の山雲のやどりの松が根に痩せたる老のかばね曝(さら)さん」。

Anp_5392a

励みにしていますので、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Anp_5393a

|

« 神泉苑 朝廷の苑池と祇園祭 | トップページ | 大宮通を歩く 押小路通から姉小路通 »

コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
今日の応援です。ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2026年6月 5日 (金) 01:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 神泉苑 朝廷の苑池と祇園祭 | トップページ | 大宮通を歩く 押小路通から姉小路通 »