八大神社と宮本武蔵
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詩仙堂の前の坂道の上に八代神社があります。「八大神社」は鎌倉時代の永仁2年(1294)に創建され、一乗寺の産土神(うぶすながみ)、氏神として信仰されてきました。
かつて比叡山麓の七里(ななさと)に祀られていた産土神の一つでした。「八大」の名は、崇道天皇など8人の御霊を表すとされ、それらを祀る御霊社でもありました。 摂社の「山ノ神社、牛宮社」
室町時代の応仁の乱(1467-1477)で焼失、安土桃山時代の1596年に再建。皇居守護神十二社の一つに数えられ、江戸時代には後水尾天皇(1596-1680)や霊元法皇(1654-1732)が修学院離宮への御幸の際に当社に立ち寄り、奉幣を授けたといいます。
江戸時代の『東西歴覧記』や『雍州府志』には八大神社の3月5日の祭礼が登場します。現在では5月4、5日に行われ、上一乗寺、一乗寺、下一乗寺のの各地区を剣鉾が先導して神霊が乗った神輿が巡行します。「御神木」、左は樅(もみ)、右は杉。
明治時代初期には、舞楽寺の鎮守社だった天王社、諏訪神社、八幡神社が八大神社に遷されました。
「社務所」
ところで、江戸時代の剣客・宮本武蔵(1582-1645)が、慶長9年(1604) 吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に八大神社に立ち寄ったといわれています。宮本武蔵は実在の人物で、以下では史実にもとづいて武蔵の生涯を振り返ります。「花手水」
武蔵の出生地は、『五輪書』や『小倉碑文』では播磨(兵庫県高砂市)、江戸時代の『東作誌』では美作国(岡山県美市)とされ、生家跡や智頭急行の宮本武蔵駅(無人)があります。父は赤松氏の支流・新免氏の一族とされていますが、異説もあります。
武蔵の著書『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述されています。
現在の本殿は大正15年(1926)に造営され、祭神として素盞嗚命、稲田姫命、八王子命を祀ります。 禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び・和歌、方除・厄除、学業・教育と様々な御神徳があるされます。
関ヶ原の戦い(1600)では父が東軍の黒田家に仕官していたという黒田家の文書があり、武蔵は父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高いと考えられています。
21歳頃のとき、武蔵は「蓮台野」で道場主・吉岡清十郎を、「三十三間堂」でその弟・伝七郎を倒したあと、「一乗寺」で吉岡一門の70数人を相手に戦うことになりました。
武蔵は必勝祈願のために当神社を訪れてこの戦いにも勝利、吉岡一門は剣術指南を廃業したといわれます。2003年一乗寺下り松の決闘から400年の記念事業としてブロンズ製の宮本武蔵像が建立されました。
武蔵が当神社に参拝に訪れた事実は細川藩の「二天一流」の門弟に伝えられている『二天記』に記されています。二天一流は武蔵の剣法の流派です。この時の武蔵の心境は吉川英治の「随筆 宮本武蔵」(講談社)に書かれています。
一方、江戸時代の伝記作家による『吉岡伝』では、1戦目は吉岡直綱が対戦して武蔵が出血したので試合が中止(吉岡が勝利または引き分け)、2戦目は吉岡直重が戦うことになっていましたが武蔵が現れず、3戦目はなかったことになっています。
しかし、対戦相手が武蔵と同定できず、吉岡家の伝記で確認できない対戦者が登場するなど、吉岡伝は創作の可能性が高いといわれています。(当時の一乗寺下り松の一部が祠に納められています。)
また、吉岡家の末裔で著名な染色家の吉岡幸雄氏によると、吉岡家は武蔵に敗れ剣を捨てて弟子の李三官がたけていた黒染をもとに染屋をはじめたことが伝わっているそうです。
本殿の右に「七社」があります。右から、加茂大神社・柊大神社、赤山大神社・貴布禰大神社、春日大神社・新宮大神社、諏訪大神社・竈大神社、賢防大神社、八幡大神社、日吉大神社。
大坂の陣(1614、15)では、水野勝成の客将として徳川方に参陣して活躍したことが多数の資料から裏付けられています。「皇大神宮社」、伊勢神宮の内宮の祭神・天照大神が祀られています。
その後、姫路藩主・本多忠刻と交流、明石では町割(都市計画)を行い城や寺院の作庭を行いました。 1624年、尾張国に立ち寄り円明流を指導。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられました。
1626年、播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させました。上述の小倉碑文は伊織が武蔵の菩提を弔うために、1654年に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した顕彰碑です。
島原の乱では、小倉藩主・小笠原忠真に従い伊織が出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣しました。 乱後の武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことが書かれています。「祭器庫」
1640年熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、屋敷とともに7人扶持18石に合力米300石が支給され破格の待遇で迎えられました。「鷺森台神社、大将軍社」
この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられています。また、熊本近郊の金峰山の岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始め、死の直前まで続きました。
五輪書は武蔵の兵法や哲学を密教の五輪(五大)になぞらえて五巻に分けて書かれ、主要な外国語に翻訳されて海外でも読まれています。米国のビジネススクールの経営学のテキストにもなったそうです。『宮本武蔵肖像』(島田美術館蔵。熊本県指定文化財)
オリンピックを五輪と訳すのはこの書が由来だそうです。 坂上にある「常盤稲荷」、最後の写真は坂道への出口です。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
オリンピックと五輪、そうなんですね。
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投稿: ゆーしょー | 2026年5月29日 (金) 02:13