妙心寺 南部の塔頭
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日に続いて妙心寺の残り(南部)の塔頭を見てまわります。TOPは境内の中心の南北の道で、突き当りに大方丈、左手に法堂があります。今まで境内の北部の塔頭を記事にしましたが、
そこで紹介できなかった塔頭があります。下の境内図の左上の大心院の特別公開にいったときに通った道沿いに二つの塔頭があります。一つは七不思議で記事にした大龍院で、境内図の茶色い四角形が山門を表しています。
「徳雲院」 室町時代の永正3年1506年、檀越・刑部宗晋(ぎょうぶむねくに)が、妙心寺25世大休宗休(そうきゅう)を請じて創建したとわれています。当初は、現在地の南、霊雲院に対面する大庫司(おおくす)の地にありました。
刑部宗晋は武将・細川勝益 (?-1502)の三男。大休宗休(1468-1549)は東福寺で出家、龍安寺・特芳禅傑に師事。その没後、龍安寺、妙心寺の住持を務め、今川義元の招きにより駿河国・臨済寺を開山。後奈良天皇より円満本光国師の諡号を賜わりました。
「聖澤院(しょうたくいん)」 室町時代の大永4年(1523)妙心寺18世天蔭徳樹(てんいとくじゅ)が、細川氏、土岐政房らの支援を受け、師の妙心寺13世東陽英朝(とうようえいちょう)を勧請開山として創建。聖澤派の本庵です。
東陽禅師(1428-1504)は美濃の生まれで土岐持頼の子。龍安寺の雪江宗深(せっこうそうしん)の法嗣で、丹波竜興寺、大徳寺、妙心寺、尾張瑞泉寺などの住持になりました。その法系に江戸時代の臨済宗中興の祖と仰がれる白隠慧鶴がいます。
「天授院」 南北朝時代の1380年(南朝:天授6年)、妙心寺2世・授翁宗弼(じゅおうそうひつ) が開祖となり、自らの塔所として創建。南朝の年号の天授を院号にしました。当初は、山内の東海庵の北、方丈の間に位置していたそうです。
妙心寺山内の塔頭として最も古く、妙心寺の専門道場です。「碧巌録(へきがんろく)提唱」という看板がかかっています。碧巌録は中国の仏教書で禅文学としての価値も大きく、修行者が自分の悟境を深めるための公案集として用いられているそうです。
最初の訪問のときに記事にした「退蔵院」、室町時代の応永11年(1404)越前の豪族・波多野重通が、妙心寺3世の無因(むいん)禅師を開山として創建。国宝の瓢鮎図を所蔵しています。ツツジが咲いていました。
「龍泉庵」 伊勢生まれの景川宗隆は16年の間、雪の日も霜の日も妙心寺の師匠のもとに通い「禅は景川」と称賛されました。室町時代の文明13年(1481)境内に敷地を与えられ、細川政元の援助を得て創建しました。「TKC研修道場」という看板がかかっています。
TKCは正しい使命感を抱く会計人の団体として1971年に設立、全国組織が結成されました。中央研修所、地域会研修所が設置され多くの会計事務所が参画しています。会計人の自己探求の場として、龍泉庵に坐禅研修道場が置かれました。
「慈雲院」 江戸時代前期の承応2年(1653)大阪の商人橘屋新兵衛が、妙心寺194世湛月紹円を開山に招いて創建、当初は慈雲庵と称して妙心寺北総門前にありました。
湛月紹円は慶長12年(1607)奈良に生まれ、興福寺、法隆寺で学び、比叡山で天台を修め、妙心寺96世龍巌瑞顕の法嗣を継ぎ、妙心寺の住持となりました。(下2枚は以前の写真で、6月になると境内にサツキが咲き、山門が開かれます。)
明治11年(1878)慈雲院は妙心寺山内の現在地に移り、そのとき湛月が開いた松濤庵(しょうとうあん)および大森(北区)の寿仏寺を併合しました。最後の写真は本坊あたり、境内でよく見かける風景です。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
刈り込まれたツツジが
めちゃめちゃきれいですね。ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2026年5月 7日 (木) 00:27