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2026年4月 3日 (金)

桜散歩 日仏会館から吉田神社本宮

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は雨も止んだので桜を見に出かけてきました。琵琶湖疏水分線の散策も始まったばかりですが、最新の桜情報を兼ねて記事にします。最初に訪れたのはバス停「京大正門前」(旧東一条)の北にある関西日仏会館です。

「関西日仏会館」はフランス政府公認の施設で、フランス語講座を開講し、様々な文化イベントを開催しています。フランスと京都の橋渡しをしたレオン・ジュリー(1822-91)はフランスの医師で、幕末に来日して長崎で語学教師をつとめました。

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明治5年(1872)から同8年まで京都府に招かれ仏学校のフランス語教師を努め、その間最新技術を学ぶための西陣物産会社織工のフランス派遣に尽力しました。

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退職後は東京で教鞭をとり、明治10年に帰国しました。帰国時に京都府から委託されて稲畑勝太郎(1862-1940)ら8名の留学生をフランスへ引率し、留学中の監督の任にあたりました。中庭にレオン・ジュリーの顕彰碑があります。

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詩人大使と呼ばれた駐日フランス大使のポール・クローデルは、比叡山に夏季限定のフランス語学校を作ろうとしました。関西財界とのパイプ役を担った大阪商工会議所会頭・稲畑勝太郎の呼びかけで設立の準備が進められ、

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多額の寄付金が集まったことで、一時的な夏季大学構想は恒久的な施設の設立へと結びつきました。1927年、山科区の九条山に関西日仏学館が創設されました。日本で最初のフランス政府に属するフランス語学校の誕生です。

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稲畑勝太郎と関西財界は再び資金を集め、1936年アクセスのよい現在地に新しい建物が建設されました。原案はオーギュスト・ペレの高弟レイモン・メストラレ、設計監督は木子七郎が行いました。中庭に稲畑勝太郎の胸像があります。

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1936年5月、東久邇宮稔彦王を迎えて新館落成式が華やかに執り行われました。フランスから送られた調度品のうち、ルルー作の『Boudoir』は豪華客船ノルマンディー号でも使われたテーブルで、1階のレストランで今も活躍中だそうです。

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終戦後、荒れた館内を整えた後、関西日仏学館は1946年1月、早々に活動を再開しました。1981年に取り壊された九条山校舎の跡地には、フランスから芸術家を招聘するアーティスト・イン・レジデンス「ヴィラ九条山」が創設されました。

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この時は稲畑勝太郎の孫・勝雄氏の主導のもと、建設のための資金集めが行われました。2003年リニューアル・オープン、2009年館内に在大阪・神戸フランス総領事館が移転してきました。

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関西日仏会館では、フランス語・文化講座、フランス語試験管理センター(検定機関)、留学支援、翻訳サービスなどを行っています。また毎月、食のイベント「ル・マルシェ」が開催され、数十の出店があり賑わいます(今月は4月19日です)。

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このあと、東一条から京都大学の正門前を通って吉田神社に向かいます。この道は吉田神社の参道でもあります。本部構内では新入生歓迎のイベントを行っていました。

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隣は「連絡バス専用出構口」、桂キャンパスや宇治キャンパスとの連絡バスが出入りします。本部構内の桜が見えます。

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「吉田神社」の創建は古く、平安時代前期の859年に藤原山蔭が春日の神を勧請して平安京の鎮守神にしたのが始まりです。 「一の鳥居」

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鎌倉時代初期以降は吉田流卜部(うらべ)氏が代々吉田神社の社司となり、次第に社格が上がり南北朝時代には正一位を授けられました。(参道の石段横に「吉田幼稚園」があります。)

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社司で卜部家17代の室町兼煕(かねひろ)は、永和4年(1378)京都室町にあった自宅の敷地を足利義満に譲り、足利幕府は室町幕府ともよばれました。そして、兼煕はそれまで名乗っていた室町をはばかり、吉田神社に因んで家名を「吉田」としました。

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室町時代中頃の1484年、吉田兼倶(かねとも、1435-1511)は唯一神道(吉田神道)を唱え、将軍・足利義政夫人の日野富子などによる寄進をもとに、山上に斎場所太元宮を造営しました。

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本宮には、健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀ります。それぞれ、開運・厄除け、学問、最後の2柱は夫婦神で良縁や夫婦和合の御神徳があります。

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吉田家9代当主「吉田兼見」(1535-1610)は、明知光秀など当時の武将たちと親交があり、ときには朝廷の使者を務め、日記『兼見卿記』(かねみきょうき)は本能寺の変前後の世相や光秀を知るために貴重な史料となっています。

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光秀とは、従兄弟の細川藤孝(幽斎)を介して知り合いました。当時、光秀と幽斎は共に織田信長の家臣でした。元亀3年(1572)の織田信長の上洛の際には、光秀が上洛をあらかじめ伝え兼見は信長を迎える準備を整えました。

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当時の兼見は下級の公家でしたが、信長の力で昇殿が許される堂上家の身分になり、従三位、公卿に列席しました(その後の歴史は次回)。下と最後の写真は「開運桜」 社務所の前でおみくじを結わえるために植えられたヤマザクラだそうです。

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コメント

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投稿: ゆーしょー | 2026年4月 4日 (土) 00:42

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