桜散歩 宗忠神社
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日の竹中稲荷神社を出て向かいの宗忠神社を訪れました。「宗忠神社」は江戸時代後期に黒住教を創始した黒住宗忠を祀る神社で、その高弟・赤木忠春が創建しました。
手前にある吉田山の坂道は宗忠神社の参道でもあり、車で来る方は上の鳥居から入るようです。境内の一部は月極駐車場になっていて、吉田山の上(神楽岡)に住んでいる方が以外に多いことが分かります。
手水舎の「神井戸」 水は出ないといわれていた土地に忠春が掘り当てた井戸です。 神社に御神慮に適わぬことが起こると水が濁るといわれています。
宗忠は、江戸時代の安永9年(1780)備前国(岡山県)の今村宮の神主の家に生まれ、文化11年(1814)の冬至の日、朝の太陽を拝しているうちに神人一体の霊感を受け、黒住教を創始したとされます。「拝殿」
手前の拝殿は昭和12年(1937)、奥の二つの本殿は明治46年(1912)に改築されたものです。左に宗忠大明神、右に二条家より遷した天照大神を祀っています。
以後宗忠は布教を重ねましたが、嘉永3年(1850)に亡くなりました。高弟の赤木忠春は美作(岡山県)の出身で眼病のため失明しましたが、宗忠の教えによって視力を回復したといわれています。
宗忠の死後忠春は京都で黒住教の布教に努め、文久2年(1862)に吉田神社からこの地を譲渡され、宗忠を祀ったのが宗忠神社です。拝殿の右の摂社「白山社」は、石川県の白山を神体とする白山比咩神(しらやまひめのかみ)を祀り、この地の鎮守です。
幕末の安永3年(1866)には、朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられました。宗忠神社は朝廷の勅願所となり、皇室や二条家、九条家などの公家からも信仰されました。 (拝殿の左の摂社「忠春社」は忠春を祀っています。)
明治時代になり、大日本帝国憲法では信教の自由が明記されました。しかしながら、政府は皇室の祖先を祀る神社神道は宗教ではないとの立場をとり、神道を他宗教の上において教育の基本に置き、国民統合の支柱としました。 「社務所」
しかし、神社神道を整理・法制化する中で深刻な問題が生じました。政府が神社神道の中心においた伊勢神宮に対して、同じ皇室の祖先神を祀る出雲大社が反発しました。 「神楽岡中教会所」
さらに、皇室の祖先神ではなく日本古来の神々を祀る多数の神社も反発しました。そこで、政府は神道事務局を設けて信者数などの一定の条件を満たす神道を教派神道として公認しました。
明治政府によって公認された教派神道は14派あり、その内で黒住教、金光教、天理教は代表的な3教団です。ちなみに、キリスト教および13宗派の仏教宗派も公認されました。
黒住教がいち早く教派神道 として公認される「別派独立の許可」を得たのは忠春の築いた人脈によるところが大きいといわれています。(表参道は桜のトンネルとして知られています。)
終戦後は政教分離がなされ、伊勢神宮の特別な地位はなくなりました。しかし、伊勢神宮を本宗とする神社からなる宗教法人・神社本庁が発足して、多くの神社が加盟しています。備前焼の狛犬
一方、黒住教は神社本庁に属さず、神道のみにとらわれず国内外をも分け隔てなく「宗教」を軸とした活動しているそうです。特に「世界連邦日本宗教委員会」および「世界宗教者平和会議日本委員会」に参画、
国際的な会議やネットワークへも積極的に参加し、宗派・教団を超えた相互理解と信頼の涵養につとめているとされます。一の鳥居の前まで下りてきました。
一の鳥居の正面の道に、「陽成天皇神楽岡東陵」があります。第57代・陽成天皇(869-939)は清和天皇の第一皇子で、母は藤原長良の娘・高子(二条后)です。貞観18年(876)9歳で父・清和天皇から譲位され、母方の伯父・藤原基経が摂政に就きました。
成人すると基経との関係が悪化、17歳のとき退位させられます。その後の上皇歴65年は現在まで歴代1位です。歌才があり、幾度か歌合を催し、小倉百人一首に採録されています。このあと、真如堂に向かいました(最後の写真)。
励みになりますので、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。
★こちらを是非よろしく→
ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク






































コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
このお宮さんにも沢山桜が
植えられていますね。
とてもきれいです。
ポチ♪2。
投稿: ゆーしょー | 2026年4月 9日 (木) 00:24