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2026年3月 4日 (水)

鳥羽離宮跡公園

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の城南宮を出て、その西にある「鳥羽離宮跡公園」を訪れました。上は公園の東北の入口で、その正面に池と小山があります。

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「鳥羽離宮」は、平安時代後期に白河上皇が造営を始め、鳥羽上皇の頃に完成した院御所です。伏見区の下鳥羽、中島、竹田、南区の上鳥羽にかけて広大な離宮が築かれ、白河、鳥羽、後白河上皇3代にわたる院政が行われました。

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全国から資材を集め、周辺には多くの寺院や御所が立ち並び、院に仕える貴族から雑人に至るまで周辺に住宅地が与えられて移り住みました。さながら、遷都ともいえる壮大なプロジェクトだったようです。

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離宮内には、南西に南殿、北西に北殿、東に泉殿と東殿、中央に馬場殿、北に田中殿などの御所が、南にある広大な池に接して造営されました。下は杉山信三氏による 「鳥羽離宮 復元図」。

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これらの御所は陸路だけでなく水路でもつながれていました。各々の御所には、寝殿とその周囲に庭園や苑池が設けられ、様々な殿舎や仏像を安置する御堂がありました。この公園のあたりは南殿があった場所です。(小川に沿って南に行きます)

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応徳3年(1086)譲位した白河法皇はまず南殿の造営を開始、翌寛治元年(1087)には完成しました。康和3年(1101)南殿に証金剛院(しょうこんごういん)が建立されました。南東の入口、右はトイレの新築工事中でした。

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天台宗の高僧・覚猷(かくゆう)は、鳥羽離宮の証金剛院に住したことから、鳥羽僧正と呼ばれました。覚猷は重鎮であるにも関わらず風刺とユーモアのある人物で、『鳥獣人物戯画』、『放屁合戦』、『陽物くらべ』などの作者と伝えられています。

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南殿は池を前にして西南から東北にかけて雁行型に寝殿、小寝殿、御堂、証金剛院などの建物が配置されました。昭和38年(1963)~40年(1965)の発掘調査で南殿の建物跡が発見されました。上も杉山信三氏による南殿建物の復元鳥観図です。南の入口

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杉山信三氏(1906-1997)は京都市に生まれ、京都大学工学部助手の後、昭和39年奈良国立文化財研究所歴史室長。その後近畿大学理工学部教授を経て昭和51年~平成6年京都市埋蔵文化財研究所長を務めた平安京発掘の第一人者です。

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公園の南の広大な敷地も南殿付近の離宮跡で、石標には「史跡鳥羽殿跡」とあります。建物跡などの遺構は再び埋め戻されて保存、後に鳥羽離宮跡公園他は国の史跡に指定されました。

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南殿に築かれた築山は「秋の山」の遺構です。平家物語には「池の辺を見回せば、秋の山の春風に白浪しきりに打ちつけて、紫鴛白鴎逍遥す」と、当時の南殿の庭園の情景が描かれています。

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下は先ほどの鳥羽離宮の復元図の拡大で、離宮西端の「鳥羽の作道(つくりみち)」は、平安京のメインストリート「朱雀大路」の延長で都と鳥羽とを直結、秋の山も見えます。右の出島の左が城南寺です。

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下は京都市埋蔵文化財研究所調査報告第20冊『鳥羽離宮跡Ⅰ 金剛心院跡の調査』からの転載(現在の地図と遺跡配置図)です。左下に鳥羽離宮跡公園と南殿跡があり、中央に城南寺(城南宮)があった出島が描かれています。

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公園の西に休憩所があります。コンクリート製ですが、ちょっと御殿風なデザインです。ここで一休みした後、最初に通った池の畔に戻ってきました(最後の写真)。

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投稿: ゆーしょー | 2026年3月 5日 (木) 01:33

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