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2026年1月 3日 (土)

雪景色 銀閣寺と展望台

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

最近の京都では本格的な降雪は少なくなりましたが、数年に一度大雪が降ることがあります。今日は銀閣寺の雪景色を見ながら、その歴史を紹介します。

「銀閣寺」は正式名称を慈照寺、山号を東山(とうざん)という臨済宗相国寺派の寺院で、相国寺の山外塔頭でもあります。 下は「総門」、

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かってこのあたりには「浄土寺」という天台宗の寺院があり、平安時代中期から皇室からの入寺が続き、宮中の祈祷や権力者・藤原道長の病平癒祈願なども行われました。「銀閣寺垣」下から石垣、竹垣、椿の生垣の3段になっています。

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しかし、浄土寺は室町時代の応仁の乱で焼失、現在でも地名にその名が残っています。中門の受付を入ります。

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1473年室町幕府8代将軍・足利義政は将軍職を退き、浄土寺跡に山荘の造営工事を始めました。後土御門天皇から、山荘に東山殿という名が贈られ、1483年には常御所が建てられて義政が移り住みました。池は「錦鏡池(きんきょうち)」。

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1486年義政の持仏堂の「東求(とうぐ)堂」、1489年「観音殿」(銀閣)が完成しました。粋をつくした数々の仏殿、邸宅や庭園が造られ、東山文化が花開きました。「向月台」もともと白川砂で造られた盛砂で、銀閣からの眺めを考慮したとされます。

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庭園には、義政の浄土信仰が反映され、作庭は義政が重用していた善阿弥の子・小四郎、孫・又三郎、配下の彦三郎、左近四郎などによると考えられています。花頭窓からの「銀沙灘」

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建築資材や庭園の樹木は、小川御所、室町殿跡、仙洞御所跡などから調達、さらに、武将、公家、寺院から寄贈されたといいます。本堂(方丈)の前から雪に覆われた銀沙灘と銀閣。

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しかし、1490年義政は東山殿の完成を待たずして逝去。その遺命によって別荘は禅寺に改められ、寺号は義政の法号「慈照院殿喜山道慶」に因み「慈照寺」となりました。ここは最初の撮影ポイントです。ときどき雪が激しくなります。

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後ろを見ると、本堂(京都市指定文化財)と「東求堂」(国宝)の間に手水鉢が見えます。側面にある模様が僧侶の袈裟の文様に似ているので、「袈裟型手水鉢」といわれ(江戸期の作)、斬新な意匠から様々なコピー が作られたそうです。

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開山には義政が尊敬していた故人の夢窓疎石(1275~1351)が勧請されて、相国寺の末寺となりました。右手の本堂は江戸時代初期に再建、本尊の宝冠釈迦如来坐像が祀られています。

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この後、順路に沿って池泉回遊式庭園を歩きます。錦鏡池には、諸大名が数々の名石を献上しました(諸候石)。それらのうち、大内政弘が寄進したものは現在でも残っています。

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1493年から1549年にかけて室町幕府の権威は弱体化、細川氏が管領を独占して実権を握りました。池の山際にある「洗月泉」(中央左の落水)『都花月名所』に出てくるそうです。

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その後の1549年、勢力を増してきた幕府の相伴衆で摂津国守護代の三好長慶と一族の戦い(江口の戦い)が勃発、細川晴元は長慶の追撃を恐れ、第13代将軍足利義晴と前将軍・ 義輝父子を伴って、近江坂本に逃れました。

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ここまで歩いてきた「銀閣寺庭園」は国の特別史跡・特別名勝に指定され、別名「下段の庭」とも呼ばれています。向うに見えるのは東求堂、この後、山の斜面を登り、「上段の庭」、見晴らし台へと向かいます。

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足利義晴・義輝は京都を奪回するため、銀閣寺の裏山に中尾城を築城しました。しかし、1550年5月義晴は病死、義輝は近江堅田へ逃れました。この兵火で慈照寺は観音殿と東求堂を除いて焼失、庭園も荒廃しました。展望台に向かいます。

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少し上ったところに、「お茶の井」があります。足利義政が愛用した井戸で、現在も茶会などに使用されているそうです。ここの石組は、室町時代当時の遺構だそうです。

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1587年、公卿の近衛前久(さきひさ)が無住の慈照寺を別荘として隠棲しました。前久の叔母・慶寿院は第12代将軍・足利義晴の妻です。平らな道(展望台)からは西の方の視界が開け、下に銀閣寺の建物が見えます。

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近衛前久は織田信長と親交があり、1580年には信長と本願寺の調停役を果たしました。しかし、1582年に本能寺の変で信長が自刃すると、前久は剃髪して「龍山」と号しました。銀沙灘の向こうには花頭窓が見えます。

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1612年、前久が没すると、慈照寺は再び相国寺末寺に戻りました。江戸時代を通じて慈照寺の修改築が行われ、1639年には檀越の豊盛の孫・豊嗣が、客殿、玄関、庫裏、門を新築、銀閣が修復されました。

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1658年『洛陽名所集』では慈照寺が「銀閣寺」と呼ばれており、これが銀閣寺という名称の初見だと思われます。 坂道を下る途中で銀閣の上部が見える場所があります。

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江戸時代後期には、金閣寺・銀閣寺はすでに拝観寺院だったようで、1802年『羇旅漫録』で滝沢馬琴が拝観料のことを記しています。 庭に下りると、池越しに銀閣が見える定番の撮影スポットがあります。

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明治初年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、本山の相国寺は財政的に困難な状況に追い込まれ、銀閣寺は荒廃しました。

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明治30年(1897)慈照寺16世・祥州元禎によって復興が始まりました。戦後の昭和26年(1951)東求堂と観音堂が国宝に指定されました。 帰りは、銀閣の横を通ります。

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平成6年(1994)銀閣寺は「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録され、現在に至ります。 

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
銀閣寺は雪で真っ白ですね。
今年は寒いのでよく降るのですね。

投稿: ゆーしょー | 2026年1月 3日 (土) 21:44

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2026年1月 4日 (日) 03:04

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