下御霊神社 末社・名水と神輿庫の修繕
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
久しぶりに下御霊神社を訪れました。「下御霊神社」は古くから御所の鎮守としで鎮座してきましたが、境内には民間信仰の多くの末社もあります。TOPの写真の正門は仮御所の建礼門を移築したものです。
鳥居の横にある狛犬は 嘉永7年(1854)に寄進されたもので、ユーモラスな表情をしていて絵馬にも登場します。特に下の阿形は「笑う狛犬」ともいわれ人気のようで、狛犬御籤(みくじ)になっています。
平安時代は華やかな貴族文化が栄えた一方で、災害や疫病が繰り返し起こった不安な時代でもありました。人々はその原因が貴人の怨霊がもたらすものと考えました。怨霊となった貴人とは、政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げた人々です。
その怨霊を、御霊(ごりょう)として祀り慰めることにより、災禍から守っていただこうと御霊会(ごりょうえ)が行われました。貞観5年(863)5月20日神泉苑で最初の御霊会が行われ、六つの霊前に花果を供え、高僧が読経し、新作の歌舞音曲を舞いました。
そのとき御霊として祀られのは崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武天皇皇子)、藤原夫人(伊予親王母)、橘逸勢(はやなり)、室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)で、後に藤原広嗣が加えられて六所御霊と総称されました。
さらに吉備真備、火雷神(火雷天神)が加わり八所御霊となり、出雲路の上御霊・下御霊に祭神として祀られました。この2神については諸説あり、吉備真備は不慮の死を遂げていないので、当社では六座の御霊の和魂と解釈しているそうです。
また、火雷天神はしばしば菅原道真と解釈されますが、道真が天神として祀られるのは当社の鎮座より後世になるので、当社では六座の御霊の荒魂と解釈しているそうです。
和魂(にきたま、にぎみたま)は平和、調和などを司り、徳を備えている神霊で、荒魂(あらたま、あらみたま)は、荒々しく、戦闘的な神霊、あるいは、たたりの可能性がある神霊ともいわれています。
上と下は祭神を警護する随身像で、俗に右大臣(祭神から見て右)、左大臣(同左)ともいわれます。左大臣の方が位が高いので、年配の姿をしています。
その後、下御霊神社の方は2度の移転の後、安土桃山時代の天正18年(1590)豊臣秀吉の寺社整理に伴いこの地に移転して現在に至っています。(社務所・授与所)
本殿の左の「三社」は右から「八幡社」、「神明社(伊勢神宮)」、「春日社」で、それぞれ八幡大菩薩、天照皇大神、春日大明神を祀っています。
中世から近世にかけてこの三社信仰が盛んとなり、神託(神のお告げ)が書かれた掛け軸が出回り庶民の間にも広まりました。八幡は清浄、伊勢は正直、春日は慈悲を象徴するとして子供たちの教育の規範にもなりました。
下御霊神社は宝永の大火(1708)により全焼、神輿庫と神輿、祭具も焼失してしまいました。翌年、東山天皇と霊元上皇より仮皇居の内侍所旧殿を本殿として下賜、神輿本体(大宮神輿)が寄付され、併せて現在の神輿庫が建造されました。
以来、神輿庫は天明の大火(1788)と蛤御門の変の戦火(1864)にもかかわらず神輿を守り、京都市の景観重要建築物等に指定されています。しかし、建物の老朽化がひどくなってきました(上は5年前、下は先日の写真です)。
神社では、修繕して町並み保全にも寄与したいと考え、工事費用はクラウドファンディングを利用して、氏子に限らず多くの方に協力をお願いしました。扉や軒瓦には菊の御紋が施されています。
令和5年(2023)2月ようやく、神輿庫が全面修復され、3月8日には工事関係者のみで竣工式を斎行しました。しかし、コロナ禍もあり目標金額に達しておらず、引き続きご支援をお願いしています。
大きくない境内ですが、上述の三社以外に多くの末社があります。いずれも民間信仰の対象で、住民が常時お詣りできるように勧請したものです。言い換えれば、多くの末社は、神社が住民に愛されてきた歴史を示しているともいえます。
境内の南にある「五社相殿社」は、右から斎部社(斎部神、社家の祖神)、大将軍社(大将軍八神、方位の神)と高知穂社(高知穂神、厄除)、愛宕社(愛宕大神、火除)、日吉社(日吉大神、方除)を祀ります。
「大国主社」 江戸時代の文化4年(1807)に建立され。大国主命とその子・事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀ります。福の神、縁結び、恋愛成就の神です。
「天満宮社」 御霊信仰の代表的な例として全国に菅原道真を祀る天満宮、天神社、道真社などが造られ「天神信仰」が広がりました。道真が学者であったことから、後に学問の神としても信仰されるようになりました。右の梅の木の後ろに撫で牛がいます。
境内の北にある「宗像社」は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の3女神を祀っています。海の神、航海安全の神、運輸交通の神として信仰されてきました。
「稲荷社」は稲荷大神を祀ります。もとは穀物(稲)の神でしたが、平安時代以降家内安全、商売繁盛の神として稲荷信仰が全国に広がるようになりました。神殿は寛政5年(1793)、拝所は嘉永5年(1852)の建立です。
「猿田彦社」(猿田彦大神、道案内の神)、「垂加社」(山崎闇斎)、「柿本社」(柿本人麻呂、歌道・学問文芸の神) 山崎闇斎は吉田神道に儒学を取り入れ、道徳性の強い垂加(すいか)神道に発展させました。
「手洗舎」 江戸時代の明和7年(1770)の干ばつの際、当時の神主が夢のお告げにより境内の一か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出て皆に汲ませることができたそうです。それは、「感応水」と名付けられました。
当時の井戸は現存しませんが、再堀された現在の井戸も同じ水脈からか、美味しいと評判になり、水を汲みに来る人が絶えません。
お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。
★こちらを是非よろしく→
ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク












































コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
下御霊神社の獅子狛犬は
笑っているようで愉快ですね。
これなら怖くないですね。
色んな狛犬があるものですね。
投稿: ゆーしょー | 2025年10月 6日 (月) 01:11
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年10月 6日 (月) 01:12