豊国廟と秀吉没後の歴史
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先日、渋谷通の特別公開をしていた3寺院を訪れたあと、女坂を上ってきました。突き当りに豊国廟(ほうこくびょう)の二の鳥居と石段があります(一の鳥居は新日吉神宮の横です)。
「豊国廟」は豊臣秀吉の墓所で、秀吉没後の歴史に翻弄されて様々な変遷を経てきました。
安土桃山時代の慶長3年(1598)8月 豊臣秀吉は伏見城で63歳で死去しました。その死は極秘扱いにされ、翌年4月遺言によって秀吉の遺骸は阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。
山麓の太閤坦(たいこうだいら)には社殿の造営が進められました。秀吉の死は伏せられていたので、当初は方広寺の鎮守社とされていました。阿弥陀ヶ峰は背後の山で東山三十六峰の一つ、太閤坦はこのあたりの平地です。
慶長5年(1600)4月17日、社殿が完成し後陽成天皇から秀吉に「正一位豊国乃大明神」の神階と神号が授けられ、豊国社が創建されました。正面は豊国廟の「拝殿」、左に「神札授与所」があります。
4月18日正遷宮儀式が行われ、徳川家康や毛利輝元も参詣、社司は吉田神道の卜部兼従、祭祀は妙法院常胤法親王が務め、大和四座による申楽も演じられました。当時の敷地は広大で、山上から山腹、現在の智積院や妙法院の境内に及びました。
豊臣秀頼が社領4万石を寄進して境内の整備を進め、徳川家康も一万石の社領を寄進しました。この時、境内に56基の燈篭が建ち毎夜献灯されました。その後4月と8月の祭日には勅使が参向し、諸大名の参詣も絶えなかったといわれます。
関ヶ原の戦い(1600年)で西軍が敗北しても上の状況は変わらず、慶長9年(1604)秀吉の七回忌臨時祭が7日間にわたり盛大に行われました。見物人の列が三条大橋、五条大橋から連なり、人々は豊国踊り、風流歌舞を舞ったといいます。
しかし、慶長20年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、事態は一変しました。家康の命により豊国廟、豊国社は破却されることになり、墓は方広寺裏に移されました。(秀吉の墓までは489段の石段で、今回は上っていません。)
「豊国大明神」の神号は奪われ、戒名「国泰院俊山雲龍大居士」を与えられ仏教により供養されることになりました。元和5年(1619)新日吉神社が参道をふさぐように移築され、豊国廟はそこに遷されました。明治時代の「戦捷(勝)紀念樹」
高台院(秀吉の正室ねね)の嘆願によって豊国社の建物の取り壊しは中止されましたが、その修理は禁じられました。以後300年間参道も塞がれて訪れる人もなく、社殿は朽ち果てたといわれています。
慶応3年(1868)明治天皇の意向により、明治新政府は新日吉神社の神楽殿を仮社殿として豊国社を再建しました。太閤坦の南はプリンセスラインの駐車場になっています。下は蓮華しだれ桜の献木
明治6年(1873)豊国社は別格官幣社となり、明治13年(1880)社地を方広寺大仏殿旧地の現在地に遷して豊国神社と改称、妙法院に移されていた遺宝も返却されました。この辺りは風致地区になっています。
明治23年(1890)秀吉配下の子孫らによって豊国会が結成され、旧福岡藩主の黒田長成侯爵(会長)や蜂須賀茂韶侯爵が中心となって全国から寄付金を募り、秀吉300年忌に際して明治33年(1900)豊国廟の廟宇が再建されました。
太閤坦の南から市内が展望できます。上の写真は西の方で、手前は京都女子学園、中央に京都タワー、左に東寺の五重塔が見えます。下の写真は南の方で、京都府で2番目に高い京セラ本社ビル(94.8m)、男山、その向うに大阪のビル群が見えます。
阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太設計の10mの巨大な石造五輪塔が建てられました。また、塞がっていた参道を開けるために、新日吉神社は参道南の現在地に移転され、新たに二の鳥居が建てられました。(下は以前の山頂の写真です。)
この工事のときに土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骨が発見され、丁重に再埋葬されたといいます。秀吉はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っていることになります。(拝殿の北にも五輪の搭があります。)
明治37年(1904)誓願寺から、秀頼の子・国松丸、秀吉側室・松丸殿の五輪塔が豊国廟に遷されました。右は秀吉側室・松丸殿の五輪塔、左の小さいのは秀頼の子・国松丸の五輪塔で「漏世院雲山智西大童子」とあります。
豊国廟をあとに女坂を下ります。最後の写真は東大路通から、左に「豊国廟参道」の碑があり、正面に一の鳥居、背後に阿弥陀ヶ峰が見えます。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
和歌山の人は秀吉をあまり好かないです。
根来寺の焼き討ち、太田城の水攻めなど
秀吉が居なかったら立派な伽藍が残っています。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年11月 1日 (土) 00:10
★ゆーしょーさん こんばんは♪
秀吉は京都の町の大改造を行いました。でも、京都の人で秀吉が好きでないという方も多いようです。特に晩年の朝鮮出兵や甥の秀次一族の皆殺しなど、現在も市内にその跡が残っています。
投稿: りせ | 2025年11月 1日 (土) 00:25