西院春日神社と淳和天皇
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昨日の記事に続いて、「西院春日大社」を訪れました。平安時代初期の天長10年(833年)淳和天皇は、譲位して淳和院(西院)に移りました。その際、奈良春日大社より分霊・四座を勧請して守護神としたことが西院春日神社の始まりとされます。
境内までの参道脇に「授与所」と「手水舎」、その脇に3匹の蛙の石像があります。「三かえる、見返る」から縁起がよいとされ、水をかけて祈願すると一つだけ願いを叶えてくれるとか。
「社務所」 右の藤は「御賜之藤」、京都御所の飛香舎から授かった藤です。飛香舎(ひぎょうしゃ)は平安時代の御所の後宮の七殿五舎の一つ。庭に藤が植えられていたことから藤壺の別名があり、京都御所に復元されています。
淳和天皇の皇女・崇子内親王(?-848)の疱瘡(天然痘)が神前の霊石で治り、病気平癒の神として崇められました。この石は「疱瘡石」とよばれ、病の平癒をもたらし、都に疫病が流行る前に、必ず表面が濡れたといいます。
「本殿」には、春日四座大神の建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわひぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀ります。毎月、1、11、15日に疱瘡石が本殿中門に安置・公開されます。
西大路七福社めぐり、京都十六社朱印めぐりの一つで、病傷平癒、厄除け、交通旅行安全の信仰があります。本殿と拝殿の前にお百度石があります。
本殿の右手に末社の「春日若宮社」があります。祭神は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、天押雲根命は西院春日神社の祭神・天児屋根命の子神です。子供の擁護、病気平癒、能力開発のご利益があるとされます。
江戸時代には歴代天皇が西院春日神社に健康を祈願しました。本殿の左前には、「高松宮 有栖川宮 奉偲之梅」があります。
さらに左(西)を見ると、「仁孝天皇御胞衣(おえな)塚」があります。皇子が誕生すると健やかな成育を祈願して、吉方の神社に御胞衣(胎盤)を埋めるのは宮中の慣わしでした。
仁孝天皇(1800-46)は光格天皇の第6皇子で、学問をこのみ,父の発意による公家子弟の教育機関である学習所(のちの学習院)の創設に着手。しかし完成を待たずに死去し、泉涌寺にある後月輪陵に葬られました。
神石「梛石(なぎいし)」 何事も無事戻ってくる、また健康回復のご利益があるとされます。
境内の西には末社がいくつかあります。「還来(もどろき)神社」は下の覆屋の中に社殿があります。平安時代の貞観16年(874)、淳和院で火災があり、淳和上皇の皇后・正子内親王は難を逃れて院内の松院(四条通より南)に避難しました。
しかし、住まいしていた洞裏院は類焼を免れ、無事還(かえ)ることができたのは、神の加護であるとして、人々は「還来の大神」と讃えました。以来、旅の安全や交通を守る神として崇めら、健康や失ったものなど大切なものが戻る神ともされます。
古くより、祈願や御礼に草鞋(わらじ)を奉納する慣わしがあり、第二次世界大戦では、出征兵士の生還を願う家族が多数訪れたそうです。
「弁財天」 祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たこりひめのみこと)、湍津姫命 (たぎつひめのみこと)で、芸能、音楽、紹運の神々です。「稲荷大明神」 祭神の稲荷大神(いなりおおかみ)は金運と商売繁盛の神です。
「西院社」は、淳和天皇没後に大原の御陵より清和天皇の御霊を遷し、西院の守護神としたもので、家内安全の信仰があります。
「住吉社」は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、大帯姫命(おおたらしひめのみこと)の農作豊穣の神を祀り、かって正子内親王の松院にあったそうです。
さらに西に「四社」があります。 中に「金刀比羅宮」、「大元宮」、「天満宮」、「猿田彦社」が祀られています。これらの末社はよく知られているので、祭神は省略します。
ところで、淳和天皇(桓武天皇の第3皇子)が即位したのには特別の事情がありました。第1皇子の第51代平城天皇が復位に失敗した「薬子の変」で高丘親王の代わりに皇太子となり、第2皇子の第52代嵯峨天皇が譲位して第53代天皇となりました。
思いがけなく即位した淳和天皇でしたが、清原夏野(なつの)など優れた人材を積極的に登用して政治改革と皇室財政の強化に取り組みました。上の写真は「西鳥居」、下は「能舞台」、右に鏡絵とそっくりの松が生えています。
国司交代のときに起きる紛争を解決する勘解由使を設置して権限を強化、検非遣使の整備や勅使田を設置しました。さらに詩文集や法典整備の編纂にかかわり『令義解』を編集しました。平安遷都4代目で治世は安定し平穏な日々が続きました。
境内の南の「淳和院礎石」。 淳和院は、当神社から東にかけて南北516m、東西252mの敷地があったそうです。淳和上皇の没後、皇后・正子内親王が御所とし、その後淳和院という尼僧道場になり、貞観16年(874)に焼失、後に再建されました。
平穏な時代の一方で、代々の天皇の葬儀は盛大となり、それにかかる費用と労役は民衆を苦しめました。このような民衆の困窮を救うため、淳和天皇は自分の葬儀では「骨を砕き粉となし之を山中に散らせ」と命じました。
遺言により山陵は築かれず、近臣によって遺骨が大原野山中に撒かれました。歴代天皇で唯一の散骨でした。毎年10月第2土曜日・日曜日の両日に「春日祭」が行われます。春日神社奉賛会主催の、無病息災・五穀豊穣を祈る秋祭りです。
西大路四条交差点が通行閉鎖され、長さ約7〜8メートルの剣鉾、神輿が交差点内を廻る「巴廻り」が行われます。東組の神輿は江戸時代の創作、重量約2トンで絢爛豪華なことは、全国的にみて最高級のものだそうです。写真は神社のHPからの転載です。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
今年の絵馬がとても愉快です。
巳がアヒルになったのかな? ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年10月12日 (日) 00:02