京都御苑の七不思議
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
今日は京都御苑の七不思議を紹介します。京都御苑には多くの史跡があり、七不思議はそれらの一部なので、最初に御苑の歴史を振り返ります。北東にある石薬師御門をくぐります(御苑の九門五口の出入り口の一つです)。
桓武天皇が造営した平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にありました。しかし、度重なる火災により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏(さとだいり)が置かれるようになりました。「今出川広場」
安貞元年(1227)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。現在の京都御所は、里内裏のひとつ東洞院土御門殿に由来するもので、元弘元年(1331)光厳天皇がここで即位して以来、御所とされたものです。

明徳3年(1392)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの約500年間天皇の住まいとなりました。豊臣秀吉や徳川幕府の時代になると、御所周辺に宮家や公家たちの屋敷が集められました。「今出川口」

何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小200もの屋敷が建ち並ぶ公家町が形成されていました。しかし、明治2年(1869)の東京遷都に伴って、多くの公家達も東京に移住し、公家町は急速に荒廃していきました。

この状態を憂慮した岩倉具視は明治10年(1877)に御所保存・旧観維持の建議をし、明治天皇の御沙汰が下されました。京都府は屋敷の撤去、外周石垣・土塁工事・樹木植栽等の「大内保存事業」を開始し、明治16年(1883)に完了しました。

同年御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられて現在に至ります。(向かいの大木にアオバズクの巣があり、近づけないように柵があります。)

昭和24年(1949)に京都御苑は厚生省の管理運営のもと国民公園となり、広く国民に開放していくことになりました。昭和46年(1971)に環境庁の創設に伴い、御苑も同庁の所轄となり、後に環境省に引き継がれて今日に至ります。「中山邸跡」
七不思議1「祐井(さちのい)」 中山家は藤原北家花山院家の支流で、花山院忠宗の子中山忠親を祖とします。幕末から明治維新にかけて忠能は政治的に活躍し、条約勅許に反対したり、和宮親子内親王の降嫁を推進しました。「明治天皇生誕地」
その娘・中山慶子が明治天皇の生母です。明治維新後には、幕末からの功績を認められて忠能は侯爵に叙せられ、神祇伯を務めました。忠能の孫の孝麿は東宮侍従長や東宮大夫、宮中顧問官を歴任しました。(祐ノ井は明治天皇ゆかりの井戸です。)
七不思議2「猿ヶ辻(さるがつじ)」 京都御所の北東のあたりが「猿ヶ辻」で、その築地塀の屋根裏に木彫りの猿がいます。
烏帽子をかぶり御幣を担ぎ、御所の鬼門を護る守る日吉山王神社の使いの猿です。ところが、夜になると付近をうろつきいたずらをするので、金網を張って閉じ込められたといわれています。
また、幕末の文久3年(1863)公家で攘夷派の急先鋒の一人、姉小路公知(きんとも)がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。
京都御苑の北に「近衛邸跡」があります。近衛家は藤原忠通の長男の近衛基実が祖で、藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家の一つです。家名は平安京の近衛大路に由来します。
江戸時代初頭、前久(さきひさ)は妹の前子が後陽成天皇との間にもうけた四之宮を養嗣子に迎え、以後近衛家は皇別摂家といわれ、五摂家の中で特別扱いされました。皇別摂家は皇族が養子に入り相続した摂政家です。
明治16年(1884)の華族令の制定に伴い、篤麿が公爵に列しました。昭和前期には当主近衛文麿が3度にわたって内閣総理大臣を務めました。その弟秀麿も指揮者として著名です。(近衛池を含む庭園は当時のままで保存されているそうです。)
七不思議3「糸桜」 このあたりは約60本の枝垂桜(糸桜)があり、御苑で一番早く咲くといわれています。例年はソメイヨシノが開花するときにはすでに見頃となります。写真は3月下旬です。
南の芝生エリアには2022年5月に「近衛邸跡休憩所」が設置され、「SASAYAIORI+京都御苑」が併設されています。和菓子の老舗・笹屋伊織の抹茶をふんだんに使ったスイーツを、環境に配慮した土に還る素材から作られた紙の器で提供しています。
七不思議4「縣井(あがたい)」 京都御所の西にある御所三名水の一つで、かつて縣宮神社が祀られていました。公家らは「縣召しの除目」という人事、任官を願って神社に参詣しました。その後、一条家の屋敷となり「洛陽の名水」といわれました。
井戸水は、一条忠香の女昭憲皇太后の産湯に使われたそうです。「縣井戸」の文字は江戸時代の文化年間(1804-1818)の加茂保孝筆によるといわれます。平成9年(1997)に井戸は復活しました。
七不思議5「御車(みくるま)返しの桜」 京都御所の西の芝地にあり、後水尾天皇がその美しさに御車を引き返させたとわれています。サトザクラの品種の一つで「御所御車返し」という種名がついています。
南の道の真ん中に樹齢300年といわれる椋(むくのき)の大木があります。ここにあった公家の清水谷家はかつて吉田村にあり、移転の際に吉田神社の屋根に生えていた椋を神木として移植したといわれています。ここは蛤御門の変の激戦地でもあります。
七不思議6「蛤御門」 この門は新在家門といわれいつも閉じられていました。しかし、江戸時代の天明の大火(1788)で開けられたために、焼けて口を開く蛤のような門とされ、いつしかこの名で呼ばれるようになりました。
幕末の元治元年(1864)政変により京都を追放されていた長州藩が京都守護職にあった会津藩主・松平容保(かたもり)らの排除を目的として挙兵し、京都市中で市街戦を繰り広げ、この門から御所に突入しようとしました。
来島又兵衛が率いる一隊が攻め掛かりました。その勢いは凄まじく蛤御門を守っていた会津藩を蹴散らして門の内部へ突入しました。来島又兵衛は鬼のように暴れまくり、天皇の御座所を目指して更に兵を進めます。門にはその時の銃弾痕が残っています。
この戦況を変えたのが西郷隆盛が率いる薩摩兵でした。北にある乾御門から中に入り長州軍と激戦となりました。西郷隆盛は負傷・落馬するも、先頭で暴れまくる来島又兵衛を狙撃、これを打ち取りました。来島を失なった長州兵は総崩れとなりました。
「学習院跡」 江戸時代末、閑院宮家出身で皇位を継いだ光格天皇は公家の教育に取り組み、1847年御所の建春門外に学習所を開講しました。教科は儒学を主として国学を取り入れたもので生徒は堂上・非蔵人の公家の子弟でした。「建春門」
七不思議7「桜松」 かつて、学習院跡のクロマツにヤマザクラが生えており、「松木の桜」とも呼ばれていました。枯れて倒れたクロマツの空洞に現在でもヤマザクラが花を咲かせます。
下は京都御苑を管轄する環境庁のHPからの転載です。
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コメント
七不思議知らないことばかりやわ。ふ~ん。
投稿: tacchan | 2025年9月 3日 (水) 16:54
こんばんは。ゆーしょーです。
京都御苑にも七不思議があるのですね。
糸桜がものすごくきれいです。
3月下旬には満開となるのですね。
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年9月 4日 (木) 00:05
★taccha~n こんばんは~♪
そやろ、 知らんことばっかり。
tacchanは三条〇〇やったかなあ。・・生粋の京都人やから、昔貴女に聞いたことあるんやけど、、「おばんざい」って言葉 使うか? って。
そしたら「使わへん」て。
おばんざいって何処から来た言葉やろね。 【おばんざい=京都】みたいなこという人いるけど。何でやろね。
暑いなあ、ホント暑いわあ。
投稿: りせ | 2025年9月 9日 (火) 01:20
★ゆーしょー さん こんばんは~♪
いつもコメントありがとうございます。
御所の糸桜は早く咲くから、京都に桜の季節がやってきたなあって嬉しくなります。
投稿: りせ | 2025年9月 9日 (火) 01:28