馬代通を歩く 小松原南町から今出川通
過去の全記事 2006年1月27日から毎日更新しています。
昨日の記事の熊野神社衣笠分社を後に、西にある馬代通に来ました。TOPは交差点南東にある「北警察署 小松原交番」、小松原南町にあり東西の通りの北は小松原北町です。南北の通りは「馬代通(ばだいどおり)」、
北は氷室通につながり、南は太子道(新二条通)の南で天神川に突き当たります。一条通(一条大路)以南は平安京右京の馬代小路(ばだいこうじ)に該当します。
馬代通に「後朱雀天皇陵参道」という道標があります。東側には「右 二条天皇御陵道」と刻んであり、昨日の二條天皇香隆寺陵の方向を示しています。南側には「左 後朱雀天皇御陵道」とあります。
後朱雀天皇陵はこれより西にある龍安寺内にあり、圓乘寺陵(円丘)に治定されています。治定(じじょう)とは墳墓に埋葬されている人物を特特定することです。ここから馬代通を南に歩きます。
「スペリオン イズミ」 築1997年、2階建、14戸、1Rのマンションで、バイク置き場・駐輪場ありです。マンション名のイズミは町名の和泉南町からだと思います。
「グランディールイズミ」 築1994年、2階建、14戸、1Kのマンションで、バイク置き場・駐輪場ありです。
「櫻谷文庫(旧木島櫻谷家住宅)」 櫻谷文庫は、日本画家・木島櫻谷(このしまおうこく、1877-1938)の居住していた和館、洋館、画室などの建造物からなります。櫻谷の作品、習作、写生帳や画材、手紙類など櫻谷に関わる資料類、
さらに櫻谷の収集した中世から近代にかけての日本画関係書画、詩文集、書籍、典籍など数千点以上の資料類を収蔵しています。櫻谷は中京区三条室町の商家に生まれ、京都市立商業学校を中退、日本画家今尾景年の画塾に入門。
同時に山本谿愚について漢詩を学びました。明治40年(1907)第1回文展に「しぐれ」で2等賞に入選、第6回展まで連続入賞し、第7回展では、今尾景年にかわって審査員を務めました。(建物は登録有形文化財、京都市の景観重要建造物です。)
大正元年に京都市立美術工芸学校教諭、大正4年京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教授となりました。大正元年(1912)頃、室町御池からこの地に引っ越し、これを契機に土田麦僊、金島桂華、山口華楊、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、小野竹僑、
宇田荻村など京都画壇の画家たちが衣笠周辺の地に移り住むようになりました。下は『柳桜図』1917年、絹本金地着色、六曲一双屛風、泉屋博古館東京蔵。今年の4~5月に東京と京都で作品展が開催されました。
道標「足利家菩提所等持院」 東面(こちら側)には「是より一丁西 足利家菩提所等持(以下埋没)」、北面「北 金閣寺」、南面「西 龍安寺
・仁和寺」と刻んであります。
道標の横にある東西の通り(笹屋町通)の先に等持院、さらに西に行くと龍安寺、仁和寺があります。最初にあった道標の後朱雀天皇陵は龍安寺内にあるので、この道を指しているのだと思います。
「居酒屋 嵐 (らん)」 以前はわら天神にあり、30年ほど前にここに移転してきたそうです。小料理屋の雰囲気で2階には座敷もあります。どて焼き、高菜飯、カレーうどん、ちゃんこ鍋などが人気で、ポンカラや猫飯という変わった名前のメニューもあります。
向かいは少し南にずれた笹屋町通で、両側には洛星中学校・高等学校の校舎やグラウンドが並んでいます。カトリック系ミッションスクールで、中高一貫教育の私立男子中学校・高等学校で、高等学校では生徒を募集しません。
カトリック教会の修道会である聖ヴィアトール修道会が満州国で経営していた暁東中学校が母体となり、戦後は京都と台湾・台中市の衛道高級中学に分かれ、1952年に中学校が、1955年には高等学校が創立されました。
キリスト教精神(カトリック)に基づく「全人教育」を掲げ、神父および修道士が教職員と共に活動しています。一方、難関大学の合格者を毎年多数輩出し、中学校は最難関校としても知られています。
京都大学通算合格者数で私立高校1位を誇り、卒業生には多数の有名人がいます。例えば、角田龍平(弁護士・タレント)、玉木正之(スポーツライター) 、溝畑宏(第2代観光庁長官) 、川勝平太(静岡県知事・経済学者)、浅田彰(哲学者)、西脇隆俊(京都府知事)。
北山修は『戦争を知らない子供たち』『あの素晴しい愛をもう一度』などを作詞、ザ・フォーク・クルセダーズを結成、70年前後の関西フォークの中心的人物でした。精神科医でもあり、九州大学大学院教授を経て現在白鷗大学学長です。
「堀河天皇火葬塚」 堀河天皇(1079-1107)は白河天皇の第三皇子、母は藤原師実の養女で白河中宮の賢子です。応徳3年(1086)立太子と同日に8歳で父の白河天皇から譲位され即位しました。
即位に伴い、外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握り、白河上皇とも協調しました。成人して関白が藤原師通に代わると、師通は自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的で、親政に近い状態となりました。
しかし承徳3年(1099)に師通が急死すると、堀河天皇は白河上皇に政務を相談せざるを得なくなり、結果として上皇の院政が復活しまた。そのため、「末代の賢王」といわれた堀河天皇の興味は趣味の世界に移っていきました。
叔母にあたる中宮・篤子内親王の薫陶を受け、学問・和歌・管弦に才能を発揮して廷臣らに慕われました。しかし、病弱で在位のまま崩御。この地で火葬され、龍安寺内の後圓教寺陵に葬られました。
最後の写真の向こうは今出川通と京福電車北野線です。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。
★こちらを是非よろしく→
ブログ村→
-------------------------------------------------------------------
| 固定リンク










































コメント