熊野神社衣笠分社と二條天皇陵
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昨日は西大路通の西にある熊野神社衣笠分社に行ってきました。衣笠小学校の北西の角から西大路通を渡りしばらく西に歩くと、右手に「二條天皇 香隆寺陵」があります。 
守仁親王は後白河天皇の長男でしたが生母の急死により祖父に育てられ僧籍にありました、創建2年前の保元3年(1158)、後白河天皇は譲位してその第一皇子の守仁親王が還俗して二條天皇となりました。
やがて二條天皇と周囲の貴族たちは二條親政派を形成、後白河院政派と対立しました。両派の対立は1159年の平治の乱で頂点に達し、二條親政派と手を結んだ平清盛が武力で後白河院政派の信頼らを撃破、院政派は壊滅しました。
後白河上皇は乱の最中幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難、院政が停止されました。しかし、乱によって有力近臣たちが共倒れとなったので両派の対立は小康状態となりました。
国政の案件は後白河上皇と二條天皇に奏上され、前関白・藤原忠通が諮問に答える形で処理されていたそうです。しかし、二條天皇は1165年病に冒され、2歳の皇子・順位(のぶひと) 親王(六条天皇)に譲位、その翌月に没しました。享年23。
この日は天皇の陵墓を管理する宮内庁の書陵部の職員が陵の手入れをしていました。通常は泉涌寺内にある月輪陵墓監区事務所に勤務していているそうです。下は宮内庁の軽トラ。
少し西に行くと、馬代通の近くに現代的な社殿の「熊野神社衣笠分社」があります。東大路丸太町にある熊野神社の分社で、ご近所では「ガンダム神社」とも呼ばれているそうです。
この場所は孝明・明治・大正天皇を診療した御殿医・福井貞憲の屋敷跡でした。昭和55年(1980)熊野神社に土地が寄進され、同58年(1983)に現在の社殿(本殿)が建設されました。
設計は山崎建築設計事務所、敷地面積962㎡、建築面積80㎡、延床面積㎡、構造はRC(鉄筋コンクリート造)壁式2階建、外装は杉本実(さね) 加工型枠コンクリート打放しです。手水は水琴窟になっていて、いい音がします。
屋根の上の千木や鬼瓦はステンレス製です。
ちなみに山崎建築設計事務所は山科区厨子奥若林町にある設計事務所で、とくに神社建築が専門ではないようです。
建物の中に小さな祠が納められています。祭神は、熊野神社の祭神の分霊、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神、速玉男尊(はやたまのをのみこと)、事解男尊(ことさかのをのみこと)を祀ります。
縁結び、安産、病気平癒のご利益があるといわれています。昨日は祠の右の受付・授与所が開いていて、御朱印が頂けるようでした。
ところで、熊野神社衣笠分社は「西大路七福社ご利益めぐり」の札所になっています。平安時代の西大路は、平安京の中心である朱雀大路に近く、野寺小路(のでらこうじ) と呼ばれ道幅12mにもなる都のメインストリートでした。
現在でも東大路に対応する南北の大通りでが、有名寺社が集積する東大路界隈に比べて、西大路界隈を訪れる参拝客は多くありません。(ろうそく、御神木、絵馬、はここで初穂料と引き換えに頂けます。おみくじは左上の機械からです。)
多くの人に西大路界隈の神社の歴史やご利益を知ってもらおうと、昭和58年(1983)に五社めぐりから始まり、翌年当社も加わり7社となり、40年以上続いています。(敷地には福井貞憲の旧邸の庭があるそうですが、こちらの扉から行けるのかも知れません。)
他の神社とご利益は、南から吉祥院天満宮(ちえ、能力開発)、若一神社(開運、出世)、西院春日神社(病気平癒、厄除、旅行安全)、大将軍八神社(方除、厄除)、平野神社(開運、良縁、心願成就)、わら天神宮(安産、子授け、縁結び)。
全行程約7キロで西大路をまっすぐに進む比較的わかりやすい順路です。ゆっくり歩いても一日で参拝でき、安産からちえや能力開発、開運出世、延命長寿までの人生の節目を守ってくださる神様のご利益が頂けます。
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