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2025年9月 9日 (火)

新京極の七不思議

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

今日は新京極の七不思議を紹介します。TOPは河原町三条の「三条名店街」の入口で、この通りと新京極通の交差点が七不思議の最初です。

七不思議1「たらたら坂」 かって誓願寺の北門があった場所で、ここから新京極通が始まります。ここから下り坂になっていますが、両隣の河原町通と寺町通には坂はなく、終点の四条通ではそれらの通りは同じ高さなのが不思議とされています。

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「新京極通」は明治初めに京都府参事槇村正直によって作られました。寺町通に並んでいた寺の境内に出店が並んでいたことに目を付け、東京遷都によって沈滞した京都の復興のために一大繁華街を作ろうと考えたのです。

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明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、戦後は修学旅行の中高生を始めとする観光客も増えました。また、昭和6年(1931)キネマクラブ(のちの菊水映画劇場)で初めて『瞼の母』が公開され、松竹発祥の地といわれました。

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以後、各社の映画館や劇場が20軒以上並び市民の娯楽の場所でしたが、現在ではこの松竹のシネコン「MOVIX京都」だけとなりました。

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新京極通と六角通が交差する場所には、1989年に開場された「新京極六角公園」、愛称「ろっくんプラザ」があります。新京極商店街のシンボルのような存在で、ベンチや床机がおいてあって様々なイベントが開催されます。ろっくんプラザに面して、

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「誓願寺」があります。浄土宗西山深草派の総本山で、飛鳥時代の天智天皇6年(667)に、天皇の勅願により創建されました。もとは奈良にあり、奈良時代(784年)に山城国乙訓郡に移され、平安遷都(794年)以前には相楽郡に移りました。

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七不思議2「誓願寺の迷子の道しるべ」 右に「教しゆる方」、左に「さがす方」と彫ってあり、落し物や迷子を捜す方、教える方が、紙に書いて貼りました。幕末から明治中頃にかけて迷子が深刻な問題となり各地の寺社や盛り場に建てられたそうです。

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本尊の阿弥陀如来像は京洛六阿弥陀仏の一つ。もとは石清水八幡宮の八幡神の本地仏として安置されていましたが、明治初年の神仏分離令後の廃仏毀釈により誓願寺に遷されました。平安時代後期の定朝様式で鎌倉-南北朝時代の作とされます。

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七不思議3「誓願寺の阿弥陀如来」 かって誓願寺には、胎内に五臓六腑を持つ阿弥陀如来があったと伝わります。日本で初めて人体解剖を行った医学者・山脇東洋が、解剖したある囚人の霊を弔うために寄進したとされていました。

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その囚人は無実の罪で処刑されたと東洋の夢に現れて訴えたそうで、阿弥陀如来像を寄進した後は、東洋の夢に囚人が現れることはなくなったといわれています。下は脇壇の「十一面観音菩薩」で弘法大師作といわれます。

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誓願寺の北東に「山脇東洋解剖碑所在墓地」という石碑があります。山脇東洋(1706-1762)は江戸時代の医学者で、長らく禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行い、その記録を公表しました。ここから南が裏寺町通です。

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新京極通と蛸薬師通の交差点南東、蛸薬師通に面して浄土宗西山禅林寺派に属する「安養寺」があります。

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平安時代の寛仁2年(1018)に恵心僧都が奈良県當麻(たいま)に建てた蓮台院が始まりで、恵心の妹・安養尼が居住して安養寺と改名しました。本堂はビルの2階にあります。

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七不思議4「逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀如来」 本尊は八枚の蓮華を逆さに置いた上に立っていて、このことから倒蓮華寺と呼ばれています。伝説によれば、本尊をつくるとき蓮座がどうしても壊れるので逆さにしたところ、無事完成したそうです。

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新京極通の東の裏寺町通に面して、誓願寺の裏に塔頭の長仙院があり、その創建の詳細は不明です。本尊は善徳寺から遷された阿弥陀如来坐像です。廃寺となった清円寺から遷された安倍晴明の坐像を安置していることでも知られています。

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七不思議5「未開紅(みかいこう) の梅」 つぼみの頃は濃い紅色、咲くと白い花をつけるという珍しい八重桜です。かつては誓願寺境内にあったといわれます。長仙院は通常は非公開ですが、予約をすれば拝観できるそうです。

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新京極通に戻り、誓願寺からを少し南に行くと「誠心院」があります。華嶽山(かがくざん)東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、和泉式部ゆかりの寺というより、通称が和泉式部とよばれています。

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和泉式部は、越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれ、美貌と歌の才能に恵まれ、冷泉天皇の皇后・昌子に仕えました。20歳の頃、和泉守・橘道貞の妻になり、夫の任国と父の官名により「和泉式部」と呼ばれ、小式部内侍が生まれました。

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しかし、結婚生活は破たんして帰京後は別居します。冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王との熱愛が世に知られますが、為尊親王の死後、その同母弟・敦道親王の求愛を受け、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因となりました。

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敦道親王との間に永覚をもうけるも、父子とも相次いで亡くなります。その後、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、丹後守・藤原保昌と再婚しました。47歳の頃に娘の小式部内侍に先立たれ、性空上人の勧めで誓願寺の本堂に籠りました。

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七不思議6「和泉式部塔」 和泉式部の晩年の動向は知られていませんが、当時はできないとされた女人往生を成し遂げたといわれ、謡曲「誓願寺」が生まれました。その舞台の「宝篋印塔」は鎌倉時代の天和2年(1313)の建立です。

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新京極通の南端、河原町通の近くに「染殿院」があり、時宗四条派大本山金蓮寺の塔頭です。石標には「時宗開祖・一遍上人 念佛賦算遺跡」とあります。賦算(ふさん)とは、時宗において「念仏札」を配ることだそうです。

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七不思議7「染殿地蔵」 文徳天皇皇后・藤原明子(829-900)は美貌の女性でしたが子供ができず、この地蔵尊に祈願したところ、皇子を懐妊しました。明子は「染殿」と呼ばれる邸宅に住んでいたので染殿后と呼ばれていました。

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祈願した地蔵は染殿地蔵尊と呼ばれるようになり、現在でも本堂に祀られ子宝や安産の信仰があります。染殿地蔵尊は空海作ともいわれ、高さが2m以上もある木彫裸形立像のお地蔵さんですが、秘仏となっていて50年に一度しか開帳しないそうです。

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明子が子を授かったことにより、父・藤原良房は摂政となることができ藤原氏の摂関政治が始まりました。また、明子が産んだ皇子は後に清和天皇となり、その子孫は清和源氏と呼ばれ、源頼朝や足利尊氏など有力な武士を輩出しました。「そめどの犬」

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南(河原町通)の出入り口は、甘栗和菓子で有名な「林万昌堂四条本店」の中を通ります。最後の写真は河原町通の南からで、右端の石標には「安産・京洛 染殿地蔵尊」、左面には「左 京極近道」と刻んであります。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
新京極にも七不思議があるのですね。
たらたら坂ですが、和歌山の商店街
にもたらたら坂があるのです。
商店街の中ほどに、ほんの数メートル、
たらたらとした高低差50センチ
ほどの坂です。商店街の人たちは
「たらたら」と言っています。

投稿: ゆーしょー | 2025年9月 9日 (火) 23:47

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