« 西大路通を歩く 平野宮北町から上立売通 | トップページ | 9月の風景とイベント情報 »

2025年8月31日 (日)

南禅寺の七不思議

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jmu_0485a
※写真は全てクリックで拡大します。

今日は南禅寺の七不思議を紹介します。TOPは三門で、参道から下の中門をくぐって南禅寺の境内に入ります。

「中門」 関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601)、武将・松井康之より伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。しかし、下に出てくる「日の御門」の拝領により、南に移されて幕末までは脇門と呼ばれていたそうです。

Jmu_0812a

七不思議1「勅使門」 三門の後ろには勅使門があります。江戸時代の寛永18年(1641)に明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。

Jmu_0811a

かっては天皇や勅使の来山のときに限って開かれる門でしたが、今では住持の晋山に限って開かれるそうです。「晋山」とは、新しい住職が就任するときの儀式です。(下は駐車場から)。

Jmu_0815a

七不思議2「石灯籠」 三門の右手前に巨大な石灯籠があります。寛永5年の三門落慶の際に佐久間勝之が供養の為に奉献したもので、高さ6メートル余りの車洋一の大きさといわれています。俗に、佐久間玄藩の片灯寵と呼ばれています。

Jmu_0806a

七不思議3「三門」 現在の三門は寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものです。三門とは仏道修行で悟りに至る為に通過しなければならない三つの関門の空、無相、無作の三解脱門を略した呼称だそうです。

Jmu_0477a

山門とも書き表されて寺院を代表する正門で、禅宗の七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の一つです。(久しぶりに三門に上りました。)

Jmu_0488a

上層の楼は五鳳楼といわれ、内陣には仏師左京等作の本尊・宝冠釈迦座像、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅僕を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。

Jmu_0491a

三門は南禅寺開創当時の永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって建立、その後、応安年間(1368-1374)に新三門へと改築されましたが、文安4年(1447)の火災で焼失しました。(西の方には市街地で最も高い京都ホテルオークラが見えます。)

Jmu_0493a

楼上で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」と見得を切る歌舞伎の場面は有名でが、五右衛門は文禄3年(1594)に処刑され、三門が再建されたのは寛永5年(1628)なのでこの場面は創作です。(北の方には、金戒光明寺の山門と御影堂)

Jmu_0544a

本坊から入る拝観領域に二つの七不思議があります。ここで、南禅寺の歴史を簡単に振り返ります。 正応4年(1291)に、亀山法皇がこの地にあった離宮を無関普門禅師(大明国師)に下賜し、開山として迎えて開創したのが始まりです。

Jmu_0575a

その後、南禅寺は五山の別格第一位となり壮大な伽藍が整備されて隆盛を極めましたが、応仁の乱で全てを消失してしまいました。慶長10年(1605)に以心崇伝禅師(本光国師) が南禅寺第270世住持となり、寺を復興します。

Amg220909a

七不思議4「方丈」 慶長16年(1611)に朝廷から女院御所の御対面所を拝領して方丈として移築しました。下の写真の右が方丈で、上の本坊略図では右にある御昼の間、鳴滝の間、麝香の間、鶴の間、西の間、柳の間と中央の内陣からなります。

Jmu_0584a

七不思議5「方丈庭園(虎の子渡し)」 方丈が移築された際、小堀遠州の作庭で方丈庭園(下)が造営されました。(東西に長い地形に石組が左奥だけに置かれていて、遠近法で庭が広く見えます。)

Jmu_0591a

築地塀の向こうにかっては借景として東山(大日山)が見えたそうです。白砂の広い空間を残し、巨大な石を横に寝かして配置する手法は江戸時代初期の代表的な禅院式枯山水式庭園です。

Jmu_0594a

須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観を表現した庭園とは異なり、水墨画の世界を表したともいわれ、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。なお、大きな石は近江富士を表しているとされます。方丈庭園は、昭和26年に国指定の名勝となりました。

Jmu_0593a

方丈の背後に「小方丈」が接続されており、寛永年間(1624-1644)の建築で、伏見城の遺構とされています。内部に探幽筆と伝えられる 『群虎図』(重文)40面があり、「虎の間」とよばれています(上の本坊略図で方丈の左下の部屋です)。

Jmu_0604a

前庭は「小方丈庭園」で別名「如心庭」と呼ばれ、昭和41年に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導して作庭されたそうです。その名のとおり「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭です。

Jmu_0608b

七不思議6「水路閣」 琵琶湖疏水分線は、蹴上から南に流れて南禅寺境内に入りアーチ状の水路で谷を横切ります。当初の計画では地下にトンネルを掘る予定でしたが、上に亀山法皇の分骨所があるとして宮内庁からストップがかかかりました。

Jnc_1430a

当時は最新の洋風建造物で周囲と調和しているとはいえないものでした。南禅寺をはじめ住民からも反対運動がおこり、教育や社会活動に没頭していた福沢諭吉も激しい言葉で計画を批判したそうです。

Jnc_1573a

しかし、現在ではレトロな建造物として南禅寺の見どころの一つになっています。向うの南禅院は「南禅寺発祥の地」とよばれ、塔頭ではなく南禅寺の一部(別院)です。鎌倉時代の文永元年(1264)、亀山天皇はこの地に離宮・禅林寺殿を造営しました。

Jnc_1439a

その後、禅林寺殿の一部が焼失し、その跡地に上の御所(松下殿)を建て、住居としました。焼失を免れた部分は下の御所と呼ばれるようになります。正応2年(1289)に亀山天皇は離宮で出家して法皇となりました。そのとき住まいとしていた持仏堂が南禅院です。

Jnc_1463a

七不思議7「曹源池(そうげんち)」 庭園は当時のおもかげを残し、鎌倉時代末の代表的池泉回遊式で、周囲を深い樹林で包まれています。作庭は亀山法皇ともいわれ、早くから、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。池を一周します。

Jnc_1471a

ところで、「曹源」とは曹渓(禅宗)の源泉の意味です。中国の禅僧、達磨、慧可、僧粲、道信、弘忍と続いて来た禅の流れが、六祖慧能禅師によって大成し、後に禅宗の五家七宗に分化発展し、日本にも二十四流の禅として伝えられ現在に至っています。

Jnc_1477a

この源は「曹渓」の一滴から流れ流れて来たもので「曹源の一滴水」といい、禅の真髄、正伝の禅法を「一滴水」というそうです。「亀山天皇分骨所」 ここは遺言により分骨埋葬された御陵で、宮内庁の管轄地です。

Jnc_1490a

背後の「龍門瀑」から琵琶湖疏水の水が流れ込んでいます。石組は鎌倉時代の形式とか。

Jnc_1493a

滝の水は下池に流れ込み、ここには小島を「心」の字に配した心字島が造られています。池ではなく島で字を造るのは珍しいそうです。曹源池を一周して方丈が見えてきました(最後の写真)。

Jnc_1509a

お帰りの際にブログランキングの応援のクリック↓をして下さると励みになります。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnc_1524a

|

« 西大路通を歩く 平野宮北町から上立売通 | トップページ | 9月の風景とイベント情報 »

コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
「絶景かな」で有名な
南禅寺の三門ですね。
ものすごく立派な門ですね。
秋の紅葉は見事でしょうね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年9月 1日 (月) 02:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 西大路通を歩く 平野宮北町から上立売通 | トップページ | 9月の風景とイベント情報 »