大徳寺瑞峯院とキリシタン大名
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先日、大徳寺塔頭で通年公開している瑞峯院を訪れました。総門からの道の突き当りの千体地蔵尊の前の道沿いにあります。その前に黄梅院を訪れましたが、編集の都合上順番を変えました。「山門」(重文)は室町時代の創建当初のものです。
「瑞峯院」は、室町時代の天文4年(1535)キリシタン大名として知られる大友宗麟が、大徳寺第91世・徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)禅師を開祖として、菩提寺を創建したのが始まりです。拝観入口がある「庫裡」。
徹岫禅師は、大徳寺86世の小渓紹怤(しょうけいじょうふ)に師事し、天文5年(1536)に大徳寺91世となりまじた。青年時代の上杉謙信に禅を指導し、後奈良天皇の帰依を受けたといいます。
大友宗麟は南蛮貿易により経済力を高め、その間キリスト教への関心を強め、自ら洗礼を受けました。「方丈(客殿)」は、創建年に建立された室町時代の禅宗方丈建築の遺構で、重要文化財に指定されています。
最盛期には九州六ヶ国を平定しましたが、薩摩・島津氏に敗れて晩年には秀吉傘下の一大名として豊後一国までに衰退しました。「唐門」(重文)も室町時代の創建当初のものです。
「独坐庭」 方丈の前庭で、中国の禅僧・百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱した禅語にちなんで名づけられました。開祖400年遠忌を記念して、昭和36年(1961)に重森三玲によって作庭された蓬莱山式庭園で、寺号の「瑞峯」をテーマにしています。
瑞峯とは清らかな山の峰という意味だそうです。築山から砂地までにそそり立つ石が、蓬莱山の山岳から続く半島を表します。大きな砂紋と三玲の庭としては小さい石が、大海の荒波を強調しています。
正面の瑞峯院の扁額は後奈良天皇によるもので、瑞峯院は大伴宗麟の法名にちなんでいます。
中央に開祖の大満国師(徹岫禅師)の木像を安置しています。33枚の襖絵は野添平米画伯の作で、世界的名山といわれる朝鮮の金剛山とその大自然の雄大さを描いています。
絶え間なく打ち寄せる荒波にもまれながらも雄々と独坐している石は、中国の名僧・雲門禅師になぞらえているともいわれています。
独坐庭は西の茶室の前まで続いていますが、このあたりは穏やかな入り海となっています。
「餘慶庵(よけいあん)」 千利休が山崎に建てた「待庵(たいあん)」を、表千家8代・啐啄斎宗匠(そったくさいそうしょう、1744-1808)好みの席にうつしたものです。毎月28日(千利休の月命日)に釜がかかるそうです。
六畳台目の席、次の間、八畳の下座床の席、別に廊下を隔てて四畳半向こう切りの席からなります。「茶庭」は、かっては一木一草を用いず、青石を一面に敷きつめた斬新なものでしたが、近年苔の植栽に飛び石という典型的な茶庭に改造されました。
「閑眠庭」 方丈の裏庭で、「閑眠高臥して青山に対す」の禅語にちなんで名づけられました。これは、俗世を離れて高みを目指し、山野でひそかに暮らすという意味だそうです。上の茶庭とともに重森三玲によって作庭され、静かな落ち着いた庭です。
上の写真の飛び石の奥に「平成待庵」があります。平成2年(1990)に待庵を創建当時の資料によって忠実に復元した建物で、拝観するには事前予約と特別拝観料(法話・抹茶付)が必要だそうです。正面は後で訪れる茶室です。
閑眠庭を方丈の東から見ると、縦に4個、横に3個の計7石が十字架の形に据えられていて、万民の霊を弔っているのだそうです。このため、この庭は「十字架の庭」ともいわれています。突き当りの塀の向こうには墓地があります。
この庭は方丈から続く廊下で区切られ、その先に茶室があります。
「安勝軒」 閑眠庭の東北にある茶室で、大徳寺山内唯一の逆勝手席になっており、床の間に向かって本床が左、脇床が右にあります。表千家12代・惺斎宗左宗匠(せいさいそうさそうしょう、1863-1937)の指導により昭和3年(1928)に建てられました。
宗麟の時代にも安勝軒という茶室がありましたが、享保年間(1716-1736)に廃されたそうです。新たに、その軒号を付けたものです。
方丈の東の坪庭には、根元にマリア像のレリーフが彫られた「キリシタン燈籠」と四角い蹲踞(つくばい)があり、閑眠庭の十字架はここからの延長線上に縦の4石が置かれています。
ところで、大伴宗麟は大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として享禄3年(1530)に生まれ、10歳で元服して義鎮(よししげ)と名乗りました。しかし、父は異母弟を当主にしようと内部抗争が起こり父と弟が死去、義鎮は20歳のときに当主となりました。
その頃禅宗に帰依、得度して宗麟と名を改め、法名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」にちなんで寺号を瑞峯院としました。宗麟はキリスト教にも興味を示して領内での布教を許可、自身も天正6年(1578)薩摩・島津に敗れた後に洗礼を受けました。
一方、正室の奈多(なだ)夫人(?-1587)は八幡奈多宮の大宮司の娘で九国一の美女といわれました。宗麟が家督を継いだ年に嫁ぎ、娘を連れての再婚で年上でした。7人の側室を持つ夫の浮気を鎮めるため、国中の僧侶や山伏らに調伏させたといいます。
奈多夫人は大友家にキリスト教が広まるのに抵抗していくつかの事件を起こし、宣教師たちからはイゼベル(反教会の女王)と呼ばれました。しかし、晩年は寛容になったとも伝えられています。瑞峯院の墓地に大友夫妻の墓があります。
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コメント
こんばんは。ゆーしょーです。
荒波の庭、半島の庭、十字架の庭、
入り海の庭など、素晴らしい庭が
沢山ありますね。
じっくり眺めたいです。
投稿: ゆーしょー | 2025年7月15日 (火) 22:21
ポチ♪2
投稿: ゆーしょー | 2025年7月16日 (水) 00:07