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2025年7月12日 (土)

大徳寺 本山の伽藍と歴史

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「大徳寺」は、山号を龍宝山という臨済宗大徳寺派の大本山です。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が開創しました。TOPと下は東にある「総門」。

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室町時代の応仁の乱で荒廃しましたが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、菩提をとむらうために総見院を建立し、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めました。

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上のように主要な伽藍(中央右の緑の場所)は南北に並んでいます。その他に広大な境内には別院2ヶ寺、塔頭20ヶ寺が並んでいて、その内のいくつかは通年で拝観できます。下は山内図の右下の南北の道で4つの塔頭があります。

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この先に「唐門」(国宝)があります。唐門は明治の中頃までは勅使門の西にあり、聚楽第の遺構と伝えられています。細部の装飾が素晴らしく、観賞すれば日が暮れる「日暮門」とも呼ばれています。

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ただし、唐門を含む方丈など本坊の建物は 2020年末から10年にわたる修復工事が行われていて、当分の間見ることができません。望遠で覗くと工事中の唐門が見えます。

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「勅使門」(重文) 前後が唐破風、左右は切妻、屋根が桧皮葺の四脚門です。後水尾天皇より拝領したと伝えられています。平成12年(2000)屋根などが修復されました。

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勅使門の西にある「平康頼之塔」 康頼は平家打倒を企てた「鹿ヶ谷事件」(1177年)によって俊寛らとともに鬼界ヶ島(硫黄島)に流されました。後に、後白河法皇の助力で都にもどることができました。

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出家をしていた康頼は仏教説話集の宝物集を著し、これが極楽往生の啓蒙書として念仏僧に利用されました。一昨日の雲林院には念仏僧が多く集まり、この供養塔を立てたという説があります。

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上の山内図の総門からの道の突き当り、左(南)に三つの塔頭があります。右は「千躰地蔵塚」 約700体のお地蔵さんが納められていますが、そのいわれを示す記録がありません。明治の廃仏毀釈の中で、明治4年(1871)に地蔵撤去の京都府布令、

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翌年には地蔵盆禁止令が出されて、京都中の地蔵が処分されました。その際 、市民によって多くの地蔵が近くの寺に持ち込まれました。しかし、明治の中頃には自然発生的に市内各地で地蔵盆が復活、その都度寺から地蔵を持ち出していたそうです。

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琵琶湖疏水を造った北垣知事の時代になると、地蔵撤去令や禁止令が廃止され、正式に地蔵盆が復活しました。山内図の主要伽藍の左(西)の道を北に歩くと、「大徳寺茶所」があります。

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茶所には大黒天が祀られています。以前は熱いお茶が用意されていましたが、コロナの時に廃止されたようです。現在は休憩所になっています。

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「仏殿」(重文) 第一世大現国師が創建するも応仁の乱で焼失、一休和尚等によって再建され、寛文5年(1665)に那波常有(なわじょうゆう)によって改めて建造されました。

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仏殿には本尊の釈迦如来像を安置しています。山門と仏殿の間にだけ入ることができ、本尊にお参りすることができます。

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「大徳寺のイブキ」 仏殿と同時期に植えられたと考えられています。一般に長命の木ですが、これほど大きくなることは稀で、貴重な大樹として昭和58年(1983)京都市指定天然記念物に指定されました。

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「山門」 応仁の乱後一休禅師に帰依する連歌師の宗長(そうちょう)等が一階部分を寄進し、後に千利休により二階部分が増築され金毛閣と名づけられました。二階に利休の像を安置したことから、秀吉の怒りをかい自決を命じられる原因となったとされます。

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「法堂」(重文) 正中2年(1325)宗印禅者を檀越として修造しましたが、応仁の兵乱で焼失。一休和尚が仏殿を再建した後は仏殿と兼用でした。寛永13年(1636)開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒・小田原城主稲葉正勝、正則父子により再建。

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「臨済宗大徳寺派 宗務本所」 ここは大徳寺の本坊でもあり、方丈や庫裏、浴室、お手洗いである東司などを含む日常の修行の場です。大徳寺の七堂伽藍は山門、仏殿、法堂、庫裏、浴室、東司と後で出てくる僧堂です。工事中の建物は方丈。

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宗務本所・本坊から西に行く道に「総見院」があります。織田信長の一周忌を迎える天正11年(1583)、豊臣秀吉によって大徳寺117世の古渓宗陳を開祖として創建されました。寺名は、信長の戒名からとったものです。

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本堂には天正11年作の織田信長木像(重文)も祀られています。信長の遺体が見つからないので木像を荼毘に付し、その像と同じく康清の作です。隣は「近衛家廟所」。

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「龍翔寺(りゅうしょうじ) 」 当初は、鎌倉時代の延慶2年(1309)太秦の柳殿御所に後宇多天皇が臨済僧・南浦紹明(なんぽじょうみょう)の塔所として創建、大徳寺とは独立した寺院でした。応仁の乱や続く兵乱で衰退し、

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戦国時代の天文10年(1541)に大徳寺境内に塔頭として再興。しかし、明治の廃仏毀釈により廃絶、大正年間に大徳寺派の修行専門道場(僧堂) として再建されました。現在修行中の 「四部録提唱」という看板がかかっています。

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南北の道の先に三つの塔頭が並んでいます。この後、拝観している幾つかの塔頭を訪れました。最後の写真は境内西にある「今宮門前通」に抜ける道です。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
大徳寺の塔頭の数凄いですね。
京都の寺で一番多いのではないでしょうか。

投稿: ゆーしょー | 2025年7月12日 (土) 21:47

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年7月13日 (日) 00:56

★ゆーしょーさん こんばんは♪
妙心寺には境内に46の塔頭があります。また末寺も3,400あるそうで、大徳寺の末寺が200と比べると規模が違います。

投稿: りせ | 2025年7月13日 (日) 02:25

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