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2025年7月10日 (木)

雲林院 紫野の離宮から寺院へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は大徳寺方面に行ってきました。最初に訪れたのは北大路通と大徳寺通の交差点南東にある雲林院です。「雲林院」はかって大寺院でしたが現在は大徳寺の境外塔頭の小寺です。

かってこの辺りの紫野(むらさきの)一帯は野が広がる狩猟地で、桜や紅葉の名所でもありました。禁野(天皇の狩猟地)として一般人の狩猟は禁止され、淳和天皇はこの地に広大な離宮「紫野院」を造営しました。

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『類聚国史』によると、平安時代初めの天長6年(829)10月10日、天皇は深泥池に出かけて水鳥の遊猟を行った後、紫野院に立ち寄って雅楽を楽しんだという記録があり、この時既に紫野院が存在していたことが裏付けられます。「南無地蔵大菩薩」

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淳和天皇は紫野院に度々行幸し文人を交えての歌舞の遊宴を催しました。832年4月には釣台に御し、陪従する文人に命じて詩を詠ませました。この頃紫野院は雲林亭に、さらに雲林院と改称され、仁明天皇に引き継がれました。

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850年仁明天皇が崩御すると、雲林院は寵愛された第7皇子・常康親王(?~869)に伝領されました。常康親王は悲嘆のため、翌年2月に落髪して僧となり、855には比叡山戒壇院にて受戒しました。「庫裏」

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869年常康親王は僧正遍昭(へんじょう)を招いて雲林院を仏寺にしてその年亡くなりました。以後、天台宗元慶寺の別院になり、天台教学の官寺として栄えました。遍照は学者・漢詩人の良岑安世(よしみねのやすよ)の子で桓武天皇の孫、

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常康親王の父である仁明天皇に仕え、天皇の死去により出家していました。元慶寺(山科)を創建、後に僧正となりました。歌人でもあり、六歌仙、三十六歌仙のひとりで、小野小町とも親交がありました。境内には様々な草花が植えられています。

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遍昭の歌碑「天つ風  雲のかよひ路  吹きとぢよ  をとめの姿  しばしとどめむ」(古今和歌集、百人一首)。雲林院は大鏡、今昔物語集、伊勢物語、平家物語など平安時代の文学に必ずといってよいほど登場して、謡曲『雲林院』の題材にもなりました。

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西行法師「これやきく 雲の林の寺ならん  花を尋ねるこころやすめん」。『枕草子』には、清少納言が祭(葵祭)の行列を見るために雲林院の前に車を止めた話があります。

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雲林院は紫式部ゆかりの地でもあります。大徳寺塔頭・真珠庵には「紫式部産湯の井戸」があり、紫式部はこの周辺で生まれ育ったとされ、その名も紫野に由来するといわれています。

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『源氏物語』第10帖の「賢木」では、「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで給へり」と、藤壺に拒まれた光源氏が亡き母・桐壺更衣の兄君のいる雲林院に籠って修行をして、天台六十巻を読みすすめます。

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紫式部は晩年も雲林院で過ごしたといわれ、東の堀川通に面して墓があります。「紫雲弁財天」

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雲林院は鎌倉時代になると衰退し、鎌倉時代末の1324年に敷地が大燈国師(宗峰妙超)に贈られて大徳寺が創建され、その際雲林院も大徳寺の塔頭として復興されて禅宗となりました。

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室町時代の応仁の乱(1467-1477)で焼失、廃絶しました。江戸時代中期の1707年、寺名が無くなるのを惜しんだ大徳寺291世・江西宗寛(こうざいそうかん)によって再建されました。「観音堂」

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再建された「観音堂」には、本尊の十一面千手観世音菩薩と、大徳寺開山の大燈国師木像、雲林院中興の江西和尚の木像が安置されています。

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後に雲林院は再び衰退して観音堂と門だけが残されたといいます。観音堂の右に賓頭盧(びんづる)尊者が祀られています。

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1980-83年、寛道宗信により堂宇が修復、庫裏が建立されて現在に至ります。

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寛道宗信は1982年京都市の生まれ。1996年大徳寺・大光院の小堀明堂により得度。1974年に雲林院住持、1982年本山大徳寺内局の書記に就任、1985に没しました。紫雲弁財天の横に新しい墓があり、寛道宗信のものかも知れません。

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岩城久治の句碑「はじめなかをはり一切大文字」。岩城久治は1940年京都市生、東京での4年間の大学生活のあと丹後の高校へ国語教師として赴任。学生時代は水原秋櫻子に、京都に戻ってからは桂樟蹊子に師事。1992年文芸雑誌「参」を主宰しました。

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「洗心庵」雲林院の研修道場です。現住職・藤田寛蹊は「地域住民の憩いの場・居場所となってほしい」との思いで、ここで「大人の寺子屋」が開催されています。コロナ禍で高齢者の外出機会が減少し、転倒や物忘れが増加しているそうです。

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また、鬱傾向となられている方も多いそうで、毎月第3火曜日 午後2時~午後3時に近所の住民・高齢者の心安らげる居場所となります。下はかっての十三重石塔、上部が崩壊して短くなっています。

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かっての雲林院は町名にその名が残るだけで、規模や正確な位置が不明でした。ところが、1980-83年、雲林院町のマンション建設に伴って発掘調査が行われ、離宮・紫野院の東部の池泉や「釣台」と思われる建物跡などが発見されました。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
朝顔がとてもきれいですね。
朝顔はこどもの頃から好きで
毎年植えたいと思うのですが
ここ何十年も植えていないのです。
このような赤い朝顔が一番好きです。

投稿: ゆーしょー | 2025年7月10日 (木) 22:52

ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年7月11日 (金) 00:12

★ゆーしょーさん こんばんは♪
春からあっとゆうまに夏になってしまいました。確かに、最近朝顔を見ることが少なくなった気がします。

投稿: りせ | 2025年7月13日 (日) 02:13

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