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2025年6月24日 (火)

三十三間堂 通し矢と千体千手観音立像

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事に続いて三十三間堂の西側に来ました。本堂の西縁は「通し矢」で知られています。長さ121.7m、高さ4.5~5.3m、幅2.36mの間を北(向う側)から南に向けて矢を射る競技です。あわせて、向いの緑地にあるいくつかの石碑を紹介します。

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後白河法皇が今様を収録した『梁塵秘抄』の歌碑があります。「観音誓し広ければ あまねき門より出でたまひ 三十三身に現じてぞ 十九の品にぞ法は説く」。歌碑は個人の奉納で鞍馬山の閃緑岩で作られています。

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通し矢は平安時代から行われたとされ、いくつか種類があります。射通した矢の数を競う「大矢数」が有名で、安土桃山時代から流行し、特に江戸時代には様々な記録が打ち立てられました。

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現在の弓道の遠的では60m先の1mの的を射て的中数を競います。一方、三十三間堂の通し矢は、本堂(西側)の北から南に矢を射て、高さ5m程度の軒の下をくぐらせ、120mの距離を射通します。

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時間は暮れ六つ(現在の午後6時ごろ)から翌日の暮れ六つまでの一昼夜で射通した矢数を競います。 特に江戸時代初めの寛永年間(1624-44)以後は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈します。 「防火水槽」

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寛永19年(1642)には浅草に江戸三十三間堂が創建され、のち火災により深川に移転。京都よりも多様な種目が行われて活況を呈しましたが、大矢数では京都の記録を上回ることはありませんでした。明治4年(1872)深川三十三間堂は解体されました。

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寛文2年(1662)尾張藩士の星野勘左衛門が6600本の通し矢の記録を打ち立てます。 寛文8年(1668)紀州藩士の葛西団右衛門が7000余本の通し矢の記録を更新しました。(北側の縁)

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寛文9年(1669)尾張藩士の星野勘左衛門は、総矢1万542本中大矢数8000本の記録を打ち立て、天下一と称されました。ところが、貞享3年(1686)紀州藩の和佐範遠(大八郎)は総矢数13,053本中通し矢8,133本を射通し、それ以後この記録は破られていません。

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安永3年(1774)紀州の野呂止祥(13歳)が、半堂射で11956本中11715本を通しました。半堂射は堂の中程から射て半分の距離を射通した本数を競い、年少者が行いました。距離が半分になると、格段に射通しやすくなるようです。(南側の縁)

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「石崎先生堂射碑」 石崎長久(1819-1886)は弓の名手として知られ、京都所司代与力戸田家に生まれ、同僚である石崎家の養子となりました。江戸後期の天保13年(1842)にここで通し矢を試み、総計6100矢を射て、その9割近くを通したとされます。

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その後江戸深川三十三間堂でもすばらしい記録をうちたて、諸大名から招聘されたましがすべて断り、京都所司代与力の職を勤めました。明治維新後は京都府に出仕し弓道教授に専念、龍安寺に墓があります。

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現在では新春の行事として通し矢、正式名称は「京都三十三間堂大的全国大会」が行われます。全国から弓術に優れた新成人と称号者(練士・教士・範士)が集まり、その腕を競います。

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60m先の的(新成人1m、称号者79cm)を2分間で2回とも的中すると決勝に進みます。決勝は一本勝負で、的中した射手が一人になるまで何度でも繰り返されます。

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「百僧供養碑」 元彦根藩士で頒暦会社社長・林立守が明治14年(1881)に三十三間堂で百僧供養を修したことを記念して建てられました。頒暦(はんれき)会社とは、明治時代初期に官暦の発行を独占的に行っていた会社です。

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百僧供養は百人の僧侶による大規模な法会で、豊臣秀吉・秀頼の千僧供養(方広寺大仏殿開眼供養)以来廃絶していた法会を復活した記念だそうです。

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以下では三十三間堂に祀られている仏像とその歴史を紹介します。三十三間堂が建立された平安時代末期には人々を末法思想が支配し、有力者は千体仏を造立して極楽浄土を願いました。「北門」、向うは大和大路通ですが閉じられています。

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鎌倉時代の1185年( 元暦2年/文治元年)大地震により千体仏が損傷し、以後数年にわたり修理が施されました。建長元年(1249)には後嵯峨上皇による本堂の修理が終わり、仏像の修理は湛慶が統括しました。

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しかしその年の3月、建長の大火により法華堂以外の大部分は焼失、本堂に安置されていた本尊の一部、千体仏156体と二十八部衆すべてはかろうじて持ち出されたといいます。お堂の拝観入口の「参集閣」。

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現在の中尊「千手観音坐像」は本堂の中央に左右の千手観音立像に囲まれて安置されています。鎌倉時代の再建時に、大仏師湛慶が同族の弟子を率いて完成させました。(内部は撮影禁止ですが、前に貼ってあった春桃会の写真に写っていました。)

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「十一面千手千眼観世音菩薩」の千体の中124体はお堂が創建された平安期の造仏、その他が鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派など多くの集団が国家的規模で参加しました。

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大正から昭和の修理と4度の大修理を繰り返し、平成30年(2018)に約50年の修復を終え千体仏すべてが国宝に指定されました。千体仏の前にはこちらも鎌倉時代の「二十八部衆像」(国宝)、左右には「風神雷神像」(国宝)が安置されています。

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同年に二十八部衆像と風神雷神像の配置が、鎌倉時代の版画やこれまでの学術研究に基づき本来の状態に戻されました。風神雷神像は湛慶が造仏に関わった名作で、建仁寺の俵屋宗達作「風神雷神図屏風」(国宝)もこの像をイメージしたといわれています。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
僕の故郷、旧和佐村出身の紀州藩和佐大八郎は
総矢数13,053本中通し矢8,133本を射通し、
それ以後、この記録は破られていませんね。
今でも和佐に和佐大八郎の墓があります。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年6月25日 (水) 00:01

★ゆーしょーさん こんばんは♪
和佐大八郎はゆーしょーさんと同郷でしたか。昔はすごい達人がいたものですね。

投稿: りせ | 2025年7月 2日 (水) 01:14

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