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2025年6月10日 (火)

大谷本廟 親鸞聖人の廟所

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※写真は全てクリックで拡大します。

東大路通の散策の途中で大谷本廟に立ち寄りました。「大谷本廟」は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の廟所(墓所)です。TOPは五条坂の南にある「円通橋」、2つのアーチ状の橋が眼鏡のように見えることから、「めがね橋」と呼ばれています。

江戸時代末期の安政3年(1856)本願寺第20代広如上人の時に親鸞聖人600回大遠忌を迎えるにあたり、蓮池と石橋が架けられました。蓮池は「晧月池」といい、ここに咲く大賀蓮は、2000年前の一粒の種から開花させ受け継がれた古代の蓮です。

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親鸞聖人は、弘長2年(1263)弟の尋有僧都の住坊・善法坊(現在の本願寺角坊)で90歳で没し、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟の御荼毘所)で火葬されたと伝えられ、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められました。「境内図」

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「師弟愛の碑」 昭和9年(1934)近畿地方を襲った室戸台風において校舎の倒壊から2名の児童を守って犠牲となった女性教師の像で、1周年にあたり彫刻家・藤井浩祐(1882-1958)が制作したブロンズ像です。 

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「総門」 第14第寂如上人の時代(1710年)親鸞聖人450回忌法要を修するにあたり建立。その後、第18代文如上人の時代(1796年)に現在の四脚門に改築されました。「大谷本廟」の額は、萬延元年(1860)に書かれた九条尚忠の筆です。

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親鸞聖人の没後10年後の1272年の冬、その末娘である覚信尼公が諸国の門弟の協力を得て遺骨を吉水の北辺に改葬し、六角の廟堂を建てご影像を安置しました。廟堂建立の地は、現在の知恩院の山門北に位置する崇泰院付近とされています。

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吉水の土地は、覚信尼公の夫である小野宮禅念の所有する土地でしたが、廟堂建立の翌々年にこの敷地を覚信尼公に譲ったとされています。その後、覚信尼公は1277年から3度にわたって、「太鼓楼」

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ここを宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟たちに通達し、遠方にいる門弟にかわり直接廟堂を護持する任に就きます。これが後の「留守職」です。「花噴水」参拝者のお供えの花です。

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「本廟会館」 納骨・読経などの受付を行う総合受付があります。このほか、建物内には売店・喫茶・食事処・参拝者の休憩所・ラウンジなどがあります。「喫茶いとう」にはコーヒーや軽食、ぜんざい等を取り揃えています。

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食事処「菜の花」松華堂弁当や天ぷら定食などの伝統的和食をはじめ、そばやうどん、洋食などメニューは約40種類。中でも和風だし仕立ての優しい味わい豆乳ゆばラーメンや京風だしが味わい深い風味豊かなゆば丼生ゆばセットがおススメとか。

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吉水の廟堂は「大谷影堂」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺」となり、第8代蓮如上人時代の「寛正の法難」(1465年)により破却されるまで、およそ200年間、諸国の門弟や同行によって護持されてきました。「鐘楼」

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「仏殿」 第13代良如上人の時代(1661年)創建され、1867年に隣接する二天門からの出火で焼失しました。現在の建物は、明治3年(1870)に再建されたものです。

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内陣には第14代寂如上人作である本尊の阿弥陀如来を中心に、歴代宗主、左余間には七高僧・聖徳太子、右余間には覚信尼公の絵像が奉懸されています。堂内の「龍谷山」の額は、寂如上人の染筆によるものです。

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「二天門(にてんもん)」 1785年、第13代良如上人の時に現在の臨済宗・六道珍皇寺にあった二天像を譲り受けたといわれています。しかし、1867年に焼失してしまいます。

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明治5年(1872)年に第21代明如上人が再び六道珍皇寺より残りの二天(広目天、増長天)を譲り受け、二天門を再建しました。その後、昭和9年の室戸台風で倒壊しましたが、昭和12年(1937)に再建しました。

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二天門をくぐった左に北門があり、そこから少し歩いたところに「御荼毘所(おだびしょ)」があります。親鸞聖人が没すると、この場所で火葬に付され、東山の鳥辺野の北「大谷」に石塔を建て遺骨がおさめられました。(写真は大谷廟堂からの転載です。)

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江戸時代、第12代准如上人時代の1603年、徳川幕府の政策によって廟堂は吉水から現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになりました。「戦没者記念堂・殉教碑」

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「明著堂・祖壇」 明著堂は親鸞聖人の墓所である祖壇の前に位置する拝堂で、東西五間、南北十間、内部に柱のない建物です。1709年、第14代寂如上人の時代に造営されました。祖壇後方には約13,000基の大谷墓地が広がっています。

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正面には、寂如上人の染筆による額が掲げられています。慶応の火災(1867年)では境内の多くの堂舎が失われましたが、この建物は幸いにも類焼を免れ、当時の大谷本廟の面影をよく今に伝えています。

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「無量寿堂」 昭和43年(1968)に第一無量寿堂、平成2年(1990)に第二無量寿堂という室内の納骨所が造営され、32,000基余りの納骨壇があります。

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「覚信尼公碑文」 覚信尼公は諸国の門弟の協力を得て吉水北辺に廟堂を創建し、自らその地を守護してこれが大谷本廟および本願寺の起源となりました。石碑は宗祖親鸞聖人700回大遠忌の昭和33年(1958)に建立されました。

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「石窟」 親鸞聖人が学問をしたと伝わる場所です。石窟入口付近には、漆喰の痕跡や踏石があり、扉があったことが分かります。江戸時代前半に京都名所案内として書かれた「京童跡追(きょうわらべあとおい)」(1667年)などにも紹介されており、

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石窟に利用された石材の多くは、江戸時代の石造品(石仏・五輪塔・小形板碑など)が利用されており、平成16年(2004)に実施された京都市の調査により、数少ない貴重な石窟であることが確認されています。

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コメント

こんばんは。ゆーしょーです。
1枚目の橋ですが、横から見ると
2つのアーチ状の橋が眼鏡のように
見えることから、めがね橋と
呼ばれているのですね。
めがね橋は長崎など各地に
何か所かありますよね。
ポチ♪2

投稿: ゆーしょー | 2025年6月11日 (水) 00:43

★ゆーしょーさん こんばんは♪
おっしゃる通りですが、メガネに見える場所がありませんでした。

投稿: りせ | 2025年6月16日 (月) 00:48

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